小田切氏の福音論概観 6

異教と犠性の美化
小田切氏の福音論・キリスト論から提起される問題は、多神教の地である異教国日本に生きるキリスト者にとって切実な内容です。小田切氏のキリスト論はひとことで言えば「十字架の福音から見たキリスト論」であり、小田切氏は、<「キリストを神とする」ことが「聖書にもとづいてなされる」というのであれば、これはたしかに問題であります。なぜなら、そこには、聖者を「神」に祭るという異教の神、日本的神があっても、聖書本来の神はないからであります。>と指摘され、<贖罪宗教としての十字架の福音を徹底的に理解するためには ―― 十字架上で死なれたキリストが神であってはならないのであります。>と強調され、<キリスト論が一つの極めて重大なキリスト教の課題でありながら「三一神論」との関係で考えられたり、論ぜられたり致しますため、どうしても哲学的思惟に乱され、聖書の告げるキリスト論が見失われがちになります。>と述べておられます(以上、『キリスト論・ドイツの旅』p89)。
日本の多神教的宗教性については次のように指摘しておられます。
「日本などにはもう何百万という程、恐らく八百万位の神々がいるのだそうであります。日本では、偉い人といわれる人は死ねば皆、神になってしまいます。偉くなくても、死ぬと、その一家の祖先の神々の仲間に入ってしまうのであります。中には生きている中から神様になって、人々から生神様といわれるような人も出て来るのであります。そして彼は、真に人でまた真に神だと宣言するのであります。それ故日本人は困ったもので、神というと何かすぐ身近かな特定の人か、死んだ偉人か祖先か、その他の諸々の神々を考えるのであります。」(『福音論争とキリスト論』p97.『キリスト論・ドイツの旅』p143他参照)
異教の問題との関係で特に重要な発言は、<「贖の死」たる十字架の出来事を、「犠牲」などという言葉で理解しようとする事が、福音の理解に欠くる証左であります(「キリストは神か」五五――五六頁)。>(『福音論争とキリスト論』p2930)という言葉のとおり、キリストの十字架の贖罪死を犠牲の死ないしは殉教の死とはみなさなかったということです(「キリストは神か」p5557、『キリスト論・ドイツの旅』p121131260261332337339参照)。これは特に日本人キリスト者に於いては重要な視点です。何故なら、古来の日本の死生観では自己犠牲や殉死を美徳とする風潮があり、それがキリスト観に反映し、さらにそのキリストを倫理的模範とする信徒の考え方に影響を及ぼしているからです。小田切氏は、<十字架の福音を正しく理解する為には、殉教死と贖罪死との区別を徹底的に理解する必要があると思います。キリストの十字架の死は、たしかに、殉教の死とも犠性の死ともみえるものがあります。しかし、もし、キリストの十字架の死をそのようなものと考えますならば、その後、キリストを信じて十字架の死を遂げた多くの殉教者達の死と全く同じように理解され、唯一の十字架は消えてしまいます。新約聖書が語るイエス・キリストの死は、決して殉教の死、犠性の死でなく、あくまでも「贖罪の死」でありました。それが福音なのであります。>と、「殉教死」と「贖罪死」とを峻別しておられます(『キリスト論・ドイツの旅』p332)。そして福音書の中でもルカ伝については、「キリストの死も、ステパノの死も、信仰の英雄の死、いわば聖者の死として描いているように思われるのであります。」(同、p335)、<イエスの「贖罪死」という唯一の死が、他の多くの殉教死と同様に取り扱われることは――ルカのように――たしかに問題を感ぜしめられるものである。(中略)イエスの十字架の死は、ルカの言うように、決して殉教者の死、聖人の死、英雄の死ではなかったようである。その臨終には、殉教者たちの死に見られるような倫理は見られなかった。>(『神学と医療との間』p60)と適確に指摘しておられます。さらに高柳伊三郎氏への質疑の書翰の中で、ヤコブ書についても、「ヤコブは信仰と行為との関係についてアクセントを行為に置き、信仰をやや従属的に見ようとする意図をもっていることを認めざるを得ないと存じます。」(同、p346)と述べ、「ヤコブ書のもつ性格も前福音的なものと理解し、ユダヤ教からキリスト教への、ごく初期の渡し舟のようなものと理解してもよいのでしょうか(一寸言いすぎかも知れませんが)。」(同、p347)と問うておられます。すなわちキリスト者の倫理は、聖書を無批判に読むだけでは現実の社会生活に於いて、福音的意味で正しく実践するものとはならないことが示されています。聖書に書いてあるから・・・という考え方自体がまず問われて然りなのです。
聖書自体、特に倫理問題については福音の光によって批判的に読み取ることが必要なのでありますから、その聖書に基づいたキリスト教文学などはなおさら批判的に読まれなければなりません。小田切氏には、キリストの死についての殉教的美化批判にとどまらず、そこから更に一歩進めて日本の異教的美徳のキリスト教文化への浸透および信徒への影響、たとえば三浦綾子さんの『塩狩峠』に代表されるような信仰と犠性の死を結びつける文学的問題にも鋭いメスを入れてほしかったと思います。理由は文学的美化が世間の道徳的品行方正のクリスチャンイメージを助長して福音宣教の妨げとなるからということもありますが、信徒に於いても行き過ぎた宗教的倫理主義は強迫観念を生み出し人格破綻につながることもあり得るからです。長野氏についても尊敬されるべきキリスト者であることに違いありませんが、それは彼の「行為」の結果が自己犠牲の「死」となったからではなく、たとえ亡くなっていなくても、その行為を生み出したところの「信仰」そのものが尊いからでしょう。それが日本古来の犠性死を美徳とする風潮の中で公的に顕彰の記念碑を打ち立て、ひいては観光の名所として経済的利益にも用いられるということについてキリスト教界でも福音宣教に有意義であるとして、これを認めていることは問われるべきことでしょう。小田切氏が、「聖書は決して人が努力して立派になり、天使のごとく、神のごとくなって、それで救われる資格をうるとは教えていなかった」(『キリスト論・ドイツの旅』p55)、「宣教師であれ、一般キリスト教徒であれ、彼が人々より尊敬されるような人格者であればあるほど、その人格が救の資格となっているかのような印象を人々に与えてはならないのであります。そして、また、他人が、彼をどのように賞賛しても、彼自身としては彼の人格が福音を信じての結果であるかのような印象を与えてはいけないのであります。」(同、p56)、「不幸なことに、美しい性格をもった、いわゆる、立派な人格者であるキリスト教徒ほど――福音から見て――危険なものはないということであります。」(同、p57)と言われているとおりです。
同じキリスト教でも聖人崇拝などのあるカトリック教会などはいざ知らず、そうした習慣を異教的であると批判した宗教改革の流れに立つ福音主義の立場に於いては、犠性死の殉教者的・英雄的扱いは矛盾することです。<人はみずから立派になったとの自覚において救が与えられるのではなく、むしろ、みずからの罪を示され、罪を自覚して、キリストの十字架以外に救のないという秘義を悟ったとき、そこに、はじめて真の救を見出すのであります。これはパウロにより「人の救われるのは律法の行為によるのではなく、ただ信仰によるのである」と主張された所でありまして、それはまた、お国が生んだルターのひとしく叫んだ所であります。すなわち、キリスト教の福音の中核は、人間の側に救に与る資格を見ないということでありまして、救とは神から来る絶対恩恵にほかならないということが「十字架の福音」の意味するところのものであると思います。>(同、p56)と言われておられるとおり、小田切氏の福音論の根本は、この信仰義認にあります。
キリストの十字架の贖罪死をはじめ、その弟子達の死を犠牲の死ひいては殉教とみなすことによって、古代のキリスト教に於いて実際に殉教が積極的意義を持ったようにキリスト者の徳のようにみなされるようなことがあってはならないのです。むしろキリストの贖罪によって救われた命を尊重する考えが強くなければなりません。仮に他者を守るために命を犠牲にするということがあるとしても、それはその人自身が選んだ死に方であって、キリスト者の倫理実践の結果と解されてはなりません。そのような死者を美化し英雄化してはなりません。ヨハネ伝12:24、15:13や、ヨハネ第一3:16などの言葉を犠性死の勧めの如く解してはなりません。自死に他ならない犠性の死を肯定するような考えがキリスト者の倫理であってはならないのです。
<その殉難の一時、リーバー氏は「友のため、その生命を捨つ、これより大いなる愛はなし」(ヨハネ一五・一三)との声を聞いたのではあるまいか。また「わがため十字架に死んだ」主を見たとも考えられるのではあるまいか。なお、その折、同乗していた某神父は、彼自身の救命具を一人の日本青年に結びつけ「救われよ」と祈り、祝して、嵐の海に飛び込ましめ、彼を救い、自らは死んでいったということである。これらが救われた人々から語られた二人の「主の僕」の殉難の姿であった。ここにもまた「臨終の倫理」が美しく輝いているのではなかろうか。>(『神学と医療との間』p65)と、小田切氏もこの出来事を美化してしまっています。

この洞爺丸事故の件は三浦綾子さんの『氷点』の「台風」の章に出てくるエピソードのモティーフになっていますが、この出来事については、日本基督教団の某牧師が生存者のオース牧師から取材した記事があるので、参考までに引用します。

「ストーン宣教師は沈み行く洞爺丸の中で、自分の救命具を女性に渡して、自分は海の藻屑と消えた、というのはあとで作られた『美談』であるようだ。あの時ストーン氏とアメリカ人宣教師リーバー氏が遭難し、2人は命を落とした。その時、カナダ合同教会のオース宣教師も一緒だった。オース氏は、奇跡的に救助された。生き残ったことで、オース氏は苦しんだようだ。長い間、その事件については沈黙していた。(中略)洞爺丸が難船した当初、乗客はパニックに陥っていた。救命具が配られ、リーバーはみんなが救命具を装着するのを手助けしていた。ストーンはパニックにあるみんなを励ましていた。その時、船は大きく傾き、そこにドアを破って海水がなだれ込み、みんなはその海水に流された。ストーンとオースは、同じ客室にまで流された。(中略)大水で流されてから、またストーンの襟首を放してから、それは程ない時間であり、その後リーバーもストーンも、そしてみんなも、もう何もできる状態ではなかった。あれで、終わりであった。その中でオースだけが奇跡的に救助されたのである。」(『信徒の友』〔日本基督教団出版局〕2007年12月号「ひろば」投稿記事) 


小田切氏の「臨終の倫理」
小田切氏は、単にキリストは神か否かといった教理的問題だけを提起したのではなく、「十字架の福音」の視点から真のキリスト教倫理とはいかなるものかという問題についても提示しておられます。
以下、小田切氏の福音的倫理思想をみてみます。まず、「十字架の下における倫理」に関してです。
<キリスト教に、真の福音的倫理というものがあるならば、それは当然、十字架の下における倫理でなければなりません。すなわち、それは、いかなるよき業をなしても――あたかも、為さざるにひとしく――それでもって救われるとは、決して思わぬという倫理でなければなりません。要するに、限りなくよき業にはげみ、しかも、それがいかに成功をおさめても、彼が罪人であることを決して忘れさせないということでなければなりません。いな、彼は、善き業を為しつつある時でさえも「罪人」にほかなりません。それゆえ、人の「善行」さえ、それは「罪」とひとしく贖わるべきであります。人には、主の贖の外に立つ何ものも存在しないからであります。要するに、それがいかに善行でも人の善行には罪の香がしみこんでいて、善行と呼ばれる「罪」があるとも、いえるからであります。主の十字架は人の「罪」の贖であり、また、人の「善行」の贖でもあります。すなわち、全人間の贖であることを知らねばなりません。>(『キリスト論・ドイツの旅』p51
小田切氏は聖書的倫理として「臨終の倫理」を説いておられます。これは医師としての立場と関連する聖書解釈と言えるでしょう。それは黙示文学的終末論に基づく「終末の倫理」に対して、現在的終末論に基づく倫理です。
<パウロには「日々に死ぬ」(
コリント一五・三一)という思想がある。これは、いわば現在的終末の体験と言えよう。また、それは日々臨終を経験するということでもあろう。それ故、そこには恐らく「臨終の倫理」そのものの体験もあったことであろう。(中略)要するに、人生最悪の死さえも、イエス・キリストの十字架の光に照らし出されて、恐れなきものとなり、むしろ勇気と喜びをもって、死の中に突入出来るものとなったということが、神に見捨てられるという旧約の死より、神に救われるという新約の死に移った徴とも言えよう。すなわち、臨終の倫理の根源には、神の子イエス・キリストの贖罪死により今救われているという現在的終末の確信があるものと言えよう。(中略)現象として捉えられる「臨終の倫理」は、死を前にした倫理であるから、冷静な理性的なものではあり得ない。それは体系的に講義されるような性質の倫理ではない。すなわち、知性的なものではなく、むしろ、パトス的なものであって、倫理的情熱が支配的である。もちろんパトスと言っても、自然の人に備わるパトスとは考えられない。信仰によるパトス、天より与えられたパトスともいえるものであろう。それは、また、イエスが語った――むしろキリストなるイエスが約束したパトスであって、後に彼の弟子達及び信仰者によって実践することの可能を約した倫理ともいえるのではなかろうか。(中略)臨終は、人が誰しも生涯の果てに必ず一度は経験しなければならないものである。そして、それは、実にさし迫った「一時」であり、時のない「時」であると言えよう。(中略)まして臨終の時は時がないからこそ、いっそう「信仰による義」を必要とするのではなかろうか?臨終において、もし人に何らかの倫理的行為があるとすれば、病気の場合には主として言葉によるものであろう。すなわち、それは精神的行為といえよう。人の死ぬときやその言よし、と言われる理由がそこにあるといえよう。しかし、生死の関頭に立つ重病人にとって、倫理的発言はそれほど多いものとは思われない。事実多くは、一、両日前から「仲なおり」の現象が現われ、美しい相貌と化し、意識が混濁し、また消失して、自然の安楽死を死ぬことが多い。(中略)臨終の倫理は、神秘にみちた倫理である。それは、ただ上からの力により、喜び勇み感謝して為さしめられると見られるところに、その特質があると言えよう。それだけに、臨終の倫理は宗教的な、あくまでも、福音的な倫理と言えよう。このいみから、臨終の倫理は実践力の固定化を考えない。(中略)「臨終の倫理」は「神の器」たるキリスト者の倫理である。それはステパノの臨終の倫理であったが、キリストの臨終には見られなかった倫理である。殉教者と贖罪者との差であろう。(中略)黙示文学的なものを土台にした「終末の倫理」やカトリックの倫理には、多く「救い」に関連するものがあり、問題を覚えるものである。永井隆先生が原爆攻撃にさらされて、打ち倒れ、傷つき、死を覚悟したとき「告白していない三つの罪があった」とその瞬間に、嘆いたと言われるが、これは福音からは危いカトリックの信仰とカトリックの倫理に生きていたためと言えよう。(中略)キリスト教倫理が、いかなる形をとるにせよ「救い」に結びつくものであってはならないのは、絶対恩恵としての福音を乱し、福音にそむく結果となるからである。(中略)何が何でもよいことは、皆キリスト教倫理が関わり、その実践に努力しなければならないと考えるようなことは、確かに心し、問題にすべきものと言えよう。(中略)真のキリスト教倫理は、いわゆる「臨終の倫理」的性格をもつべきものと言えよう。それは、天より来たる倫理的パトスの発作に基礎づけられている神秘的倫理である。(中略)イエスの倫理は、いずれも、いわば決戦場に赴くという一時に語られたものと考えられるから、現在終末論的なものであり、また、神に凡てを委ねていて自己の救いを問題にしていないという点で、その倫理には「臨終の倫理」的要素が認められると言えよう。(中略)要するに「臨終の倫理」の基盤は、神に対し人の倫理性を否定した人間観にあるものと言えよう。彼は罪人である。そして、キリスト・イエスは、彼の罪を「贖った救い主」であるという、このようなキリスト論に立って、はじめて、罪人の倫理としての――福音を危くしない――「臨終の倫理」が生れてくるものと言えよう。それは、あくまでも、主の「十字架の下なる」キリスト者の倫理である。>(『神学と医療との間』〔創文社〕p6374
以上のような「臨終の倫理」のベースになっていると思われるのが、「負債の倫理」(福音の倫理)と言われるものです。これについて、最後に、『福音からみた神と人』(原題は『倫理的憂愁とキリスト者』、ともしび社、1953年)から見てゆきたいと思います。
<キリストイエスの十字架に於て、徹底的に人間の可能性と、業の功績性とを否定された、その人の子のもつ倫理が、いかなる形で生きて来るかゞ私のキリスト者としての最大の課題なのであります。>(同、p6
<私の長い間の悩みは、このキリスト教における倫理の問題でありました。パウロの福音は私を感激せしめましたが、キリスト・イエスの教訓は私を憂えさせたと云うのが偽らぬ告白であります。私にとってしばしば福音に徹することは、倫理の破壊者または道徳上の卑怯者となることを意味したのであります。イエスの十字架が、人の救いは律法の行いによらずたゞ信仰によることを告げるのに、キリスト・イエスは何かしら律法の行為を強調すると思われたのであります。すなわち福音書とロマ書ガラテヤ書とは一致せぬように思われたのであります。これは実に私にとって大問題でありました。>(同、p68
<少年キリスト者として、聖書を熱心に読み耽ったときいらい、キリスト者としての私の最大の問題は信仰と行為すなわち福音と倫理の問題でありました。>(同、p81
このように課題とか問題とか言われていることに対して、小田切氏は聖書から答えを与えられた。その内容が「負債の倫理」(福音の倫理)と呼ばれるものである。
<福音書は学ぶべく難しい書でありました。それはそこには人の言ならで、神の言が直接語られているからであります。神の言は人の言のように、たゞ人間の理性で分ろうはずはありません。それは神の理性――真理の御霊の援助によらねばなりません。私の苦闘は続きました。しかし神様も憐れと思いたまいてか、少しく説きあかしたまいました。それが「負債の倫理」(福音の倫理)であります。>(同、p6869
<イエスの倫理を貫く貴重は、せよであって、決してする勿れではありませんでした。(中略)神の子イエスの教えたまえる倫理は、なすな、なすなではありませんでした。むしろ主としてせよでありました。(中略)イエスの倫理の特徴は(一)人を赦すこと、(二)審かぬこと、(三)復讐せぬこと、(四)神を愛し、人を愛するのみではなく、敵さえも愛すること、(五)恩義に感ずること、(六)感謝して活動的であることなどでありました。私はこれらの倫理の底を流れるものを発見しなければならないと感じたのであります。>(同、p71
<キリスト教徒は、神よりの愛の負債、すなわち罪の赦しと審きよりの救いを、無限の程度に受けておるものであります。さればこそイエスは、その恵みが判ったら、汝らは人を審いてはならぬ、汝に罪を犯す者を限りなく赦し、敵すらも赦さねばならない、いな敵すらも愛さねばならないと、(中略)すなわちイエスの倫理は、来るべき彼自身の十字架を指さいつゝ語っておられることに注意すべきであります。キリスト教の倫理は、神からの負債を知る者の倫理であります。それは正に負債の倫理であります。これこそは、罪赦された罪人によって感激してなされる倫理であります。それは倫理を実践したなどとは間違っても云えない倫理であります。報酬も名誉も、人の感激すらも期待しないし、かつ求めない倫理であります。肩の張らない、自由な、そして明るい倫理であります。謙遜な罪人にのみ可能な、謙遜な倫理であります。こゝにキリスト教的博愛の事業が起きてくるのであります。>(同、p7475
小田切氏の倫理観の要諦は、十字架の前に相対化される罪人の倫理ということです。それは「義人なし一人だになし」(ロマ3:10)という徹底した罪人としての人間理解によるものであり、<人間の一切の倫理もまた罪の結果として考えますならば、罪を贖うというイエス・キリストの十字架は人の世の善や悪のみを贖うのではなく、人の世の善も贖い、愛も贖い、正義も贖い、一切のいわゆる善き業をも贖うべきものでありまして、人間の全存在がキリストの十字架の下に立たなければならないのであります。>(同、p95)と言われるとおり、十字架の福音と密接な関係にあり、それが「福音の倫理」といわれる所以でもあります。キリスト教に於ては福音と倫理、信仰と行為とは対立するのではなく一体なのです。しかしそれほどまでに小田切氏がキリスト者の倫理を罪人としての自覚及び十字架の贖罪の恵みと結び付けて強調されるのは、<人間に可能な善とか愛とか正義とかいうもの>を、<神の善、神の愛、神の正義と等しいもの>(同、p94)であるかのように思い込んで、すなわち相対の絶対化の過ちを犯すということがあるからです。<世の倫理的キリスト教には常にこのような危険が存するもの>(同、p95)と言われています。だから小田切氏は、<キリスト者は善行において、神の如くならんとする悪魔の誘惑を心霊の厳しい試練として悟るものであります。>(同、p96)と述べておられ、<やゝもすれば悪魔に利用されやすいキリスト教倫理>(同、p99)という表現さえ用いておられます。
私自身は「死」と直結し危険な匂いのする「臨終の倫理」よりも、十字架の下に謙虚にされる「負債の倫理」(福音の倫理)に小田切氏のキリスト論・福音論の良き実を示されるのです。
(8へ続く)

《御案内》

これは、小田切信男氏の福音論を伝えるサイトです。小田切氏は、「私のキリスト論はむしろ福音論ともいうべきものであって、この論争もキリスト論論争というよりは福音論争とこそいうべきものであります。」(『福音論争とキリスト論』序文 p3)、「私にとって、福音とはキリスト彼自身でありました。それゆえ、私のキリスト論はそのまま福音論であります。」(『キリスト論・ドイツの旅』p189)と述べておられます。

 

【キリスト・イエスが唯一無二の人格でありますから、神もまた唯一の神たる性格を持つのであります。すなわち、キリスト教においてはイエス・キリスト御自身は神ではなく、神といえば必ずイエス・キリストの父なる神なのであります。私共は初代のキリスト教徒達が神々の思想及び信仰の渦巻く異教の世界に福音を宣教するに当って「新しい神」「子なる神」としてイエス・キリストを伝えなかったことを深く考えてみなければならないと思います。(中略)二十世紀の中葉を過ぎた今日、聖書にはない安易な教義の中に安住して初代キリスト教徒達の深い体験とその宣教の真実さをうち忘れてはならないのであります。(中略)イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。】(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p13~15)