小田切氏の福音論概観 1

 

「平信徒」の伝道者として

アメリカの神学者、カール・マイケルソン師は、講義のため日本に滞在中に見聞したことを踏まえて、欧米人に対して日本の神学を紹介した『キリスト教神学への日本の貢献』という著書の中で北森嘉蔵氏と小田切信男氏との論争に言及し、北森氏は「一人の平信徒と極めて危険な神学論争を行なった」と述べています(『キリスト論・ドイツの旅』p218、『神学と医療との間』p310参照)。
「平信徒」という表現は今日では不適切であるとして使われませんが、当時はキリスト教界内でも常用されていたようで、小田切氏ご自身もこの言葉を用いて自己紹介しておられます。
「私の教会にはきまった牧師さんがおりませんでしたので、日曜毎に平信徒が代るがわる礼拝説教を担当していたのであります。私も、しばしば、説教したり、聖書研究の責任者となったりして、戦後の教会を再建する為に努力致しました。それにまた、私が責任者となって教会から、聖書研究という月刊誌を刊行し、私の説教を集めた、証詞の書も出版致しました。」(同、p69
「私は日本においては一人の平信徒・伝道者として折々伝道上の証詞を致しますが、たまたまYMCA目的条文の中に、あたかも、キリスト教というのは、イエス・キリストを神とする宗教であるといったような意味の条文を発見し、非常に問題を感じたのであります。」(同、p143
小田切氏は一時は牧師を志したとも述べておられます。それは医学生の時に解剖実習で死体を前にし、医学の無力さを感じるという経験がきっかけでした。
「私はとっさに医学を棄てようと思いました。必要なのは医学による救よりは、死に勝つ福音による救であると感じました。そして、牧師さんになりたいと激しく願うようになりました。そして御両親に相談されたのですが、お父様から、「若き日に医学を修め、やがて独立して自らの勤労で生きるとともに、聖書を学んで一人の平信徒伝道者として世を送るようにとすすめ」られ説得されたとのことです(同、p7778)。

  

福音論争はYMCAの内部から始まった
神学者の北森氏と小田切氏とが論争することになったのは、YMCAという接点があったからにほかなりません。両者共に日本YMCA同盟の委員でした。
両氏の戦いは1950(昭和25)年、前述のとおり、小田切氏が日本YMCA同盟に目的条文の「イエス・キリストを神とし」という言葉に疑問を抱いて後に、同盟に対して疑義を提出した時に始まっています。日本YMCA同盟の目的条文は、1855年に第1回世界YMCA大会が開催されたパリで制定され1955年に再確認された「パリ基準」(小田切氏は「パリー標準」と言われる)と同じ内容であり、日本YMCA同盟は1975年に改訳しましたが、小田切氏が見た旧訳では以下のとおりです。
「YMCAは聖書に基づいてイエス・キリストを神とし救い主として仰ぎ、信仰と生活とを通して、その弟子になることを望み、また青年の間に神の国を拡張するために協力することを願う青年を結合することを目的とする。」
これと同じ目的条文に対する小田切氏の疑義の提示を北森氏は一蹴されたようです(『福音論争とキリスト論』p18)。両氏の論争の発端はすでにこの1950(昭和25)年にあるのです。小田切氏は3年後にも「YMCA目的一部改正についての意見」を提出しておられます。その他、当サイトの「小田切氏の経歴」を参照下さい。


小田切氏と『開拓者』誌
小田切信男という人物の名が広く知られる契機となった出来事は、日本YMCA同盟学生部の季刊『開拓者』誌上で1955(昭和30)年12月から翌年にかけて行なわれた「福音論争」と呼ばれるものでした。当時のキリスト教界の中では有名であった神学者の北森嘉蔵氏に対して信徒の立場から伝統的教義をめぐって討論したことが注目されたのです。小田切氏は昭和30年9月に発行された『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト ― 北森嘉蔵教授との討論を兼ねて ―』の「あとがき」で、 <昭和二十九年三月北森教授の反論に遭って以来、私の聖書の「イエス・キリスト」も幾つかのパンフレットとなって発表され、公式の会に於ける討論も屡々なされました。省みれば過去一ヶ年は聖書の中なるイエス・キリストについての瞑想と討論で過ぎ去り――私の生涯の最もよき一年となりました。この意味で、私の北森教授への感謝は深いものがあります。>と述べています(p76)。
この「福音論争」の発端は日本がまだ連合国軍の占領下にあった1949(昭和24)年です。小田切氏御自身、「私にとってキリスト論が問題となりました昭和二十四年の時のことを考えてみますと、私が先ず問題として採り上げました根本の理由は、在来のキリスト論の中に福音を危くするものがあると感じたことにあるのであります。」(『福音論争とキリスト論』p88)と述べておられます。また、「この問題は、昭和二十四年以来、非常に迷いに迷い、また学びに学んで来た問題であります。」(同、p90)という言葉もあります。「この問題」とは、「神」ではない「神の子」の活動が聖書の主題であり福音の主体であって、その「神の子」の中にこそ福音の真理があるという命題です。
小田切氏はこの年、札幌YMCAの再建に協力しておられました。ある時、YMCAの目的条文に謳われていた、「YMCAは、聖書にもとづいて、イエス・キリストを神とし、救主として仰ぎ」云々の一文に疑問を感じたのです。これについて小田切氏は、「これは、もちろん、その時の敬虔な青年達の心情からにじみでた宣言であって、特に、その時代の反キリスト教的世相を考えますならば、充分その意味するところを理解することができる」とした上で、<パリー標準をそのままYMCA目的条文に採用し「キリストを神とする」ことが「聖書にもとづいてなされる」というのであれば、これはたしかに問題であります。なぜなら、そこには、聖者を「神」に祭るという異教の神、日本的神があっても、聖書本来の神はないからであります。(中略)唯一の神
キリストが父と呼んで祈った神以外に、キリストなる神があるというのでは、それは多神教となり、もはやキリスト教とはいえないでありましょう。キリスト教は、いわば、贖罪宗教であります。そして、その贖罪宗教としての十字架の福音を徹底的に理解するためには十字架上で死なれたキリストが神であってはならないのであります。それゆえ、私には、YMCAの目的条文は、福音の内実を破る結果となり、福音を危うくするものと考えられたのであります。それで、私は、これを手がかりとして広くキリスト論を展開することに決心したのであります。>(『キリスト論・ドイツの旅』p89)と述懐しておられます(「パリー標準」とは普通「パリ基準」といわれているもので、これについては後述します)。そこから小田切氏のキリスト論研究が始まりました。

<十五年前からとり上げました「キリスト論」は、私の終生の聖書研究の課題となりました。これは、日本キリスト教青年会(YMCA)と、日本キリスト教界に波紋を投じ、私は非難と憎悪を浴びることとなりましたが、幾人かの心の友や先輩に支えられて今日に至りました。>(同、序文iii「十五年前」とは、『キリスト論・ドイツの旅』が出版された1964(昭和39)年(小田切氏が55才)の15年前の1949(昭和24)年。
当時、小田切氏はYMCAの宗教委員をされていたそうですが、福音論争に入る過程でのYMCAとの関係は良好とは言えなかったようです。特に、論争の舞台となった日本YMCA同盟の季刊誌である『開拓者』の編集者との関係には問題があったようです。特に、1955(昭和30)年9月に小田切氏が出版された『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)-北森嘉蔵教授との討議を兼ねて-』に対する北森氏からの反論の一文「『キリストは神か』を読みて(
)」が12月号に掲載されることを小田切氏は聞かされていなかったようで、「この十二月号の編集された時は、開拓者誌が、この問題をとり上げたということを、問題提起者であり、かつYMCA同盟の宗教委員でもあった私の全く知らなかった時でありましたが、その十二月号には北森教授の最初の論文とともに、YMCAとは全く無関係な藤原氏の乱暴な原稿――私を批判した原稿――が掲載されてありました。」(同、p206)とか、「要するに開拓者が私に対し、同誌をこの問題の為に開放することになったと連絡した時には、もう既に北森・藤原コンビが出来上がっており、両氏は一致して私への攻撃態勢をかためていたのであります。」(同、p207)という言葉から察せられます。この1955年の2年ほど前に、当時、国際基督教大学の客員教授として来日しておられたスイスの神学者、エミール・ブルンナーをYMCAは招いて「キリストが神であることについてお話を伺う会」という集まりを開いたのですが、その題名からわかる通り、小田切氏がYMCA同盟の目的条文について問題提起した出来事を受けてのもので、小田切氏はこの会を「主としてYMCAメンバーによる、いわば、つるし上げの会のようなもの」だと述べておられます(p207)。そして小田切氏がYMCA内部で発表した小論文が、小田切氏の知らぬ間に藤原氏に提供されていたということもあり、小田切氏は当然、YMCA同盟に対する信頼や誠意を感じられなくなっていたのです。ともあれ、その『開拓者』誌上での論争へと発展し、YMCA同盟の部外者にも公表されることによって、小田切氏の問題提起も日本のキリスト教史上に於いて意義あるものとなったのです。

なお、キリスト論論争(=福音論争)という出来事は、小田切氏が「止むに止まれぬ思から或は著書を以て或は誌上論文を以て論争に突入して、嵐をまきおこしてきました。」(『福音論争とキリスト論』序文p1)と言われ、その目的は、「聖書の福音を鮮明にすること」(同、p224)、すなわち「この論争により聖書の真理の中核であるキリスト論が正しく掘り下げられ、福音の秘義が明らかにされるようにと望んだのであります。」(同、p4)と述べられています。そしてさらに「その目的の或程度のものが達成したかのように思われるのであります。」(同)と評価しておられます。

 

何故、「キリストは神である」が福音を危くするのか?
前述のとおり、小田切氏は、「私には、YMCAの目的条文は、福音の内実を破る結果となり、福音を危うくするものと考えられたのであります。」と述べておられます。イエス・キリストを「神」とするという文言が聖書の福音に反し、その福音を危くすることだと小田切氏が感じた、その主たる理由をもう少しくわしくみてみましょう。
それはまず、イエス・キリストが歴史の人であるということと、神は死なない存在であるという、この2つの聖書的事実に基づきます。
<イエス・キリストといえば「歴史の人」である。あく迄も「人」である。人であるからこそ「死」を死んだのである。神でないから「死」にえたのである。イエス・キリストの「死」こそ、人類の「罪の贖」であり、福音である。それなのに、イエス・キリストを尊び崇めるために「神」としてしまえば、聖書の神には死が無いから、神なるイエス・キリストの十字架上の死は一片の芝居と化してしまうことになって、福音を危くするのではないか>(『キリストは神か』p34)、<イエス・キリストの十字架の死は、ほんとうの「死」ではなく、芝居であったということになってしまいます。これはイエス・キリストの十字架の「贖の死」を認めず、福音を芝居化することでありまして、反福音的言辞のこれに過るものはないのであります。>(『福音論争とキリスト論』p13)ということです。
ここで「芝居」という言葉が繰り返されているように(『キリスト論・ドイツの旅』p121~122、258~259も参照)、小田切氏にとって、「キリストは神である」という命題なり信仰告白が福音を危くする主たる理由は、キリストの十字架の死が人類の罪の贖いである、贖罪の死であるという救いの告知が真実ではないことになり、その告知は何ら良い知らせ(福音)にはならないからです。要するにリアリティーの問題です。

神は不死性を保つお方(テモテ6:16)であるわけで、その神が死んだふりをするようなことでは、そこに誠実も真実もないわけで、小田切氏の如く「十字架の福音」に人生をかけるという信仰は根柢から崩壊することになるわけです。だから小田切氏は「危い」と言うのです。だから、「子のペルソナでは死に、父のペルソナでは生きているという父・子一体の神は、余りにもドラマ化された神ではありますまいか。(中略)神がいくつかの仮面(ペルソナ)をおもちになり、子の仮面をつけては死に、父の仮面では依然として生きているといった事が正気で語られますと、それは聖書の神を全く俳優扱いすることとなり、不虔の極みとなりましょう。」(同、p53.『キリスト論・ドイツの旅』p259260参照)という小田切氏の北森批判はもっともなことだと思います。

 

福音論争に至るまで
小田切氏が福音論争に至るまでの信仰の証しをしておられる箇所があり、小田切氏を知る上で重要だと思われるので抜き出してみます。
<私は十才の時両親が教会の在る町にひき移りましたため、日曜学校から育って信仰をもつようになりました。私は少年の頃に、よい少年キリスト者になろうと努力したことから、かえって「罪」を自覚するようになり、少年らしい苦悶の日々を続けました。しかし、その頃、ロマ書七章七節以下のパウロの言葉をよんで励まされ慰められ、次第にキリスト教の救が「キリストの十字架」にあることを知るようになりました。私が二十二才のとき、自ら決意して洗礼をうけ、信仰を告白して、一人のキリスト教徒となりましたのは、キリストの「十字架の死」が私の罪の贖いだと確信出来たためでありました。すなわち、私の信仰は、いわば贖罪経験からはじまり、それが今迄続いているのであります。私にとって、キリスト教とは贖罪宗教にほかならないのであります。(中略)私がキリスト教徒となり、そして、いま、なお、私をキリスト教徒にとどめているものは、キリストの十字架であります。他に何らの理由もないのであります。それゆえ、私にとって、十字架の真理が少しでも動揺しますことは、私の信仰が動揺し、私をキリスト教徒にとどめておくことを危うくすることを意味しているのであります。私はパウロのように十字架以外には知るまいと決意して私の信仰生活を続けてきたのであります。齢四十才をこしてから、キリスト論に熱中致しましたのは、それが救いの論理であることを知ったからであります。すなわち、キリスト教が他の宗教と完全に自らを断ち切って、その独自性を示すものがキリストであり、かつ、「十字架の福音」であることを確信したからこそ、とくに、キリスト論を取り上げたのであります。>(『キリスト論・ドイツの旅』p188189
このように、小田切氏が福音論争に至ったのは、自分の信仰の原点であり生命である「十字架の福音」と、古代教会が作った三位一体や神人二性一人格の教義とが、小田切氏自身の中では決して両立し得ないものだったからです。

「十字架の福音」
以上のように始まった福音論争について小田切氏は次のように述べておられます。
「私の十字架の福音に対する燃ゆる思いから出発した」(『福音論争とキリスト論』p59)、「この論議は、私自身福音を真剣に追求したいという念頭からはじまったものであります」(同、p64
「私の福音追求の熱意から発したもの」であって、その「福音の熱意をもちつづける事を決意しながら」、「ただ一人所信を貫かんと努力し、非難、嘲笑、圧力に耐えて、論議を進めて」来られたと述懐しておられます(同、p64)。
「十字架の福音」という言葉は小田切福音論のキーワードとして重要なので、多用されている『キリスト論・ドイツの旅』から列挙しておきます。<少年の頃聖書の中心が「十字架の福音」であると教えられ自らもそうだと確信して以来、キリスト教をして真にキリスト教たらしめているものが多核的でないことを知りました。そして四十才を過ぎてから、聖書のしめす中核である「十字架の福音」に立って聖書を見直し、まず聖書の中心と周辺とを識別するとともに、次第に聖書の神と、聖書のキリストとがキリスト教会の教える信条の神や、信条のキリストと、どうしても一致しないものであることを見い出しました。>(序文iii)、<キリスト論は聖書から生まれて、しかも、聖書の真価を定めるものといえましょう。すなわち、聖書のしめすキリストの「十字架の福音」の光で照らし出されて、その使命を確認されるものであります。ここに、聖書をキリスト論的に読む必要が生ずるのであります。>(序文iv)、<キリスト教は、いわば贖罪宗教であります。そして、贖罪宗教としての十字架の福音を徹底的に理解するためには――十字架上で死なれたキリストが神であってはならないのであります。(中略)聖書の中核に「十字架の福音」の出来事をみる以上、どうしても十字架の福音から見たキリスト論が必要となるわけであります。>(p89)、「人が倫理的な実力者となることは、十字架の福音からは危いことであります。」(p51)、<キリスト教の福音の中核は、人間の側に救に与る資格を見ないということでありまして、救とは神から来る絶対恩恵にほかならないということが「十字架の福音」の意味するところのものであると思います。>(p56)、<キリスト教においては罪が赦され、義とされ、聖化されて救われるのでありまして、その背後には弥陀の本願とはちがう「神の正義」が貫かれているのであります。この神の義と審きがあってこそ、キリスト・イエスの十字架が福音となるのであります。それゆえ、私は日本で宣教する際、仏教との差異については、常にこの点に注意して、十字架の福音を宣べ伝えているものであります。>(p92)、<内村先生の無教会主義の中心は「十字架の福音」でありました。すなわち「十字架の贖い」の中に、神の絶対恩恵を見るということであります。そして、私もまた、イエス・キリストの十字架の贖いの中に、キリスト教を真にキリスト教たらしめている福音を認め――聖書の中心もまた、そこにあることを確信しているのであります。>(p121)、<私のキリスト理解はあくまでも贖罪死という真の死をとげたというキリストに重点がおかれているのであります。そして、このような十字架の出来事にはじまるケーリュグマが、キリスト教をして真にキリスト教たらしめているものであると信ずるのであります。そして、このような「十字架の福音」から――当然のこととはいえ――私自身の聖書理解やキリスト論が出て来ているのであります。>(p190)、<私のキリスト論とても「十字架の福音」に立つとの確信から生まれたものであります。それゆえ、私が確信している「十字架の福音」が崩れない限り、私のキリスト論も崩れないものと信じております。(中略)私にとって常に気になる問題は「十字架の福音」が危うくなりはしないかということにある為であります。>(p213)、<要するにイエスが真に人であつてこそ「死」に関わるわけであり、真に人でなければ彼の十字架の死が福音の出来事とはならないのであります。要するに、イエスが「神の子」であっても「神」ではない所に、救済の秘義が実現したわけであります。それ故イエス・キリストについては、先在、後在を論ずるに先んじ、彼がダビデの子孫で、真に人であり、決して神と呼ばれるべきでないことを主張すべきであります。そして人であって神ではないということが実に、「十字架の福音」の前提条件であることを強調すべきであります。>(p284)、<ただこの際、キリスト論としては、あくまでも聖書をして真に聖書たらしめている「十字架の福音」に中心をおき、その「十字架の福音」の光の下で、もう一度聖書を読み直し、まず、聖書自身の中心と周辺を、そして、それは当然聖書のキリスト論の中心と周辺でもありますが、その点を充分識別し、時には聖書の中の異教化したキリスト論をも見出して、これを非異教化し、「聖書本来の論理」としての「キリスト論」を捉えるべきであると信ずるのであります。そして、これらのことは「十字架の福音」に立ってのみ可能であると信ぜられます。>(p327328)、<キリスト教をして、真にキリスト教たらしめているものは、ケーリュグマであります。すなわち、キリストなるイエスの十字架の「死」と「甦り」であります。それ故、ケーリュグマに立って考えますなら、キリスト教とは広い意味における贖罪宗教(十字架の福音)として受けとめてもよいでありましょう。>(p360)、「私はキリスト教をして真にキリスト教たらしめている福音に立って――十字架の福音に立って――広くキリスト教の非異教化を徹底すべきであると信じます。」(p365)、<キリストなるイエスが「人」であって「神」ではないというところにこそ、十字架の福音が成立し、新約の贖罪宗教が成立するのであります。>(p366)、<私は「十字架の福音」といって、それがわかりきったこととして論じておりますが、「十字架の福音」は人それぞれの実存論的受けとり方もあり、一定の型に定めがたいものであります。もちろんパウロの「十字架の福音」を論じながら、さらに幾人かの先人の議論も参照して、私は私なりに私自身の「十字架の福音」観を―― 一章を設けてでも ―― 論ずべきであったかと思います。しかし、この著書自身が私の「十字架の福音」観から生まれ出たものでありますから、随所に私の「十字架の福音」観がにじみ出ていると思います。>(p370) 


ヘッドよりもハートの問題
さらに福音論争については、<私にとりましては、年来のキリスト論の論争というものは、ただキリストについての論議を賑かに戦わすということにあるのではなく、あくまでもその基盤は「福音論争」であります。福音の理解についての論争であります。それ故ヘッドの問題である以上にハートの問題なのであります。しかも同時にまたそれは、冷厳なる聖書神学の一大問題たることを提起し、学的論議を逸脱すべきでないことをも提案しているのであります。>(『福音論争とキリスト論』p86) 、<私はもともとこのキリスト論を、福音を危くするという一点において採り上げたのでありますから、ただ興味本位に、キリストは神であろうか、人であろうかと議論をするわけではなく、また、神の子は決して神ではないといったようなことを、ただ述べさえすればそれでよいというのではありません。聖書の中に記されてある、「神」ではない「神の子」と呼ばれる人格の活動が、聖書の主題をなしており、福音の主体となっていて、我々の死と亡びと救いとが、この「神の子」に関るものであるということを、そして「神の子」の中にこそ福音の真理があることを、今更の如くに確信づけられ、これが一体間違いでしょうかと問うた所から、この議論が始まったものであります。>(同、p90) と述べておられます。
ヘッドとハートに関しては、「要するに、私にとって、福音とはキリスト御自身でありました。それゆえ、私のキリスト論はそのまま福音論であります。すなわち、私のキリスト論は、論といっても頭から出ないで心情から出ている部分が多いのであります。それゆえ、それは、いつでも私の信仰告白に連るのであります。」(『キリスト論・ドイツの旅』p189
「頭」には「ヘッド」、「心情」には「ハート」と、それぞれルビが付いています)と述べておられます。
このように、小田切氏の論争の動機は主として「ハートの問題」すなわちキリストの福音に対する熱意であり、信仰のパトスの面に重きが置かれていたと思われます。小田切氏は、<聖書のキリスト論は単にヘッドの冷い「論理」であるばかりでなく、それにはハート(パトス)が一役も二役も買っている熱い「論理」であります。それゆえ、議論にさいし、時に激情にかられ、激情に打ちまかされるということの見られるのも無理からぬことと言えましょう。論理は破れることもありましょう。しかし「キリスト論」が破れますと、その人の「キリスト論」を支え、かつ押し出しているハート(パトス)がともに破れ傷つくものであります。私の「キリスト論」も私の信仰と心霊とを賭けた問題であります。それ故、時として私には「生命とり」と感じられたり、「深淵が臨まれたり」するのでありましょう。「キリスト論」は、たしかに軽々しく取り組むべき課題ではないとつくづく思われるのであります。>(同、p214215)と述べておられます。やはり信仰は理屈ではないということでしょう。だからといって霊的体験主義がよいわけはありません。物事にはバランスが必要です。「学的論議」にしても、<神については、イエス・キリストの啓示した「神」、すなわち、「主イエス・キリストの父なる神」について論ずる以外に、客観的に、思弁をたくましくし、姦しく論ずることは、己を神とする傲慢に堕すること」になる>(同、p270)ということを教訓として教えられます。 つまり宗教哲学的「絶対無」だの「万有(内)在神論」だの「宗教多元主義」だのといった現代的議論は、小田切氏からすれば行き過ぎた「思弁」となることなのでしょう。
 
小田切氏は「異端」か?
小田切氏のイエス・キリストに対する信仰告白では、キリストは「神の子」であって「(子なる)神」ではありません。だから、<イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答>(『キリストは神か』p15)と言われているのです。もちろん新約聖書には、キリストを神と告白していると解し得る箇所は認められます。ですから小田切氏も、<「キリストは神だ」は何人かの信仰告白としては認められ>ると述べておられますが、小田切氏の見解では「聖書の証言する所のものではなく、その事は反って聖書の真理を危くする事になる」のです(『福音論争とキリスト論』p79)。その1つの理由として、<「イエス・キリストは神だ」が聖書の語る所でありますなら、わざわざイエス・キリストは神の肖像であるとか、神の本質であるとか、神の栄光の輝きであるといった「神の」が語られる必要がない筈であります。それと同様に神と等しいといった表現もとられる必要がないのであります。なぜなら「神だ」で一切が解決されてしまうからであります。>(同)と述べておられます(同、p106参照)。
それなら小田切氏は、「異端」とされたアリウス派や、現代の「エホバの証人」に近いのではないか?と思われるかも知れませんが、小田切氏はあくまでも、旧新約聖書66巻を正典とするプロテスタント教会に属しておられ、キリストを被造物とはせず(『福音論争とキリスト論』p190、『キリスト論・ドイツの旅』p284参照)、キリストをあくまでも
神性者として信仰と礼拝の対象となし(『福音論争とキリスト論』p167)、先在のロゴスとしての神の子の受肉、贖罪死、復活、昇天、再臨を非神話化せずに信じておられます(これについては、小田切氏作成の「聖書の世界観のシェーマ(私見)」〔同、p108~109〕を見れば一目瞭然です)。そもそも正典とされた聖書を用いずキリストを被造物とみなす「エホバの証人」などとは、小田切福音論は全く次元を異にしているのです。さらにユニテリアンとも関係ありません。小田切氏御自身もアリウス派やユニテリアンとの違いを明言しておられます(『キリストは神か』p44、『福音論争とキリスト論』p1819、『キリスト論・ドイツの旅』p131)。また、酒枝義旗氏がドイツに行かれた時のことを綴られた文書の中で、「小田切先生の根本的な立場が、アリウス派やユニテリアン派などとは全く異り、あくまで聖書的、福音的信仰にあることがわかると、一切のわだかまりは消え失せ」(『キリスト論・ドイツの旅』p23)云々と記しておられるように、日本でもドイツでも小田切氏の聖書的立場を理解できる人が少なからずいたことは重要です。

小田切氏ご自身、北森氏による異端視やNCC文書事業部の理事達による危険視に対して、<イエス・キリストを主と告白し、神の子と信じ、その神性を信じて、先在と受肉を信じ、その死が贖の死であり、更にその死よりの甦りと昇天、再臨を信ずるという私の告白する信仰が、何所が危険で異端なものと言うのでありましょうか。第一キリスト・イエスについての告白として――このような、あくまでも聖書に即する告白に更に何を信じ加え何と告白せねばならないというのでありましょうか。私の信仰を危険となす理事達は虚心坦懐に聖書を読み直して見るべきであります。主イエスが「人間の言い伝えを堅く守って神の言を無にしている」(マルコ七・一三)と警告されたその言葉に耳を傾けるならば、神の言を無にして人間の言い伝える伝統的教義を堅く守っている人々はきびしく反省すべきであります。>(『福音論争とキリスト論』 p42)と抗議しておられます。また、小田切氏は北森氏による「偶像礼拝」批判を定義の誤りとして斬って捨て、逆に北森氏こそモーセ律法の第一戒を破っていると指摘しておられます(同、p28~29)。 
小田切氏が教会主義ないしは信条主義の立場と異なる点は、「二〇世紀の現在、聖書の異教的解釈を去って、初代のキリスト者とその信仰告白をひとしくすべきであります。」(同、p47)とか、「私共は、四世紀の神学を乗り越え、聖書の語るところに、すなわち霊が激しく働き、教え給うた原始の福音に立ちかえるべきではありますまいか。」(同、p118
)と述べておられるとおり、キリストが未だ神とみなされてはいなかった新約時代の信仰に復帰しようという考えです。すなわち小田切氏の立場は「正統」か「異端」かという分別以前の、或は両者を超えたところにあると言えます。

ただし、「原始の福音」とは言っても「キリストの幕屋」という団体などで言われるものとは意味が違います。小田切氏には所謂「熱狂(主義)」的宗教性は全くありません。その点ではリベラルなのです。

ちなみに「カルケドン信条」は5世紀の成立であり、その定式である「真に人・真に神」も小田切氏は厳しく批判しておられますので、「四世紀の神学」という表現はニカイア・コンスタンティノポリス信条に代表される「正統神学」という意味で象徴的に受けとめて然りです。(2へ続く)

 

 

 

 

 

 

《御案内》

これは、小田切信男氏の福音論を伝えるサイトです。小田切氏は、「私のキリスト論はむしろ福音論ともいうべきものであって、この論争もキリスト論論争というよりは福音論争とこそいうべきものであります。」(『福音論争とキリスト論』序文 p3)、「私にとって、福音とはキリスト彼自身でありました。それゆえ、私のキリスト論はそのまま福音論であります。」(『キリスト論・ドイツの旅』p189)と述べておられます。

 

【キリスト・イエスが唯一無二の人格でありますから、神もまた唯一の神たる性格を持つのであります。すなわち、キリスト教においてはイエス・キリスト御自身は神ではなく、神といえば必ずイエス・キリストの父なる神なのであります。私共は初代のキリスト教徒達が神々の思想及び信仰の渦巻く異教の世界に福音を宣教するに当って「新しい神」「子なる神」としてイエス・キリストを伝えなかったことを深く考えてみなければならないと思います。(中略)二十世紀の中葉を過ぎた今日、聖書にはない安易な教義の中に安住して初代キリスト教徒達の深い体験とその宣教の真実さをうち忘れてはならないのであります。(中略)イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。】(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p13~15)