小田切氏の福音論概観 2

キリストを「神」と呼ぶ聖句をめぐって
北森氏は、「イエス・キリストを神とよんでいる明白なテキストは使徒行伝二〇・二八とヨハネ伝一・一八(「独子の神」)の二ヶ所につきるといえるかもしれない」(『キリストは神か』p40)と述べたそうですが、小田切氏は更に他の例も加えて、同掲書の「第九章 問題の聖句について」(p7475)で検証しておられ、写本の正文批判(テキスト・クリティーク)にも言及しておられるほど専門的です。
ここでは小田切氏の聖書釈義についてみてみます。なお、小田切氏は、「聖書のキリスト証言にも、明確なものと明確を欠くものとがある」(『福音論争とキリスト論』p26)と述べておられます。

  

(ヨハネ伝1:1の無冠詞の「神」について)

<ヨハネ伝冒頭のこの短かい一文(一・一)において、二度出てくる神が、同一ではないことは、冠詞の有無ばかりでなく、その意味の上からも明らかであります。「言はセオスと共にあった」のセオスと、「言はセオスであった」のセオスとをいずれもただ「神」と訳してよいかは問題であります。無冠詞のセオスは、セオスでもこの場合、実体的神を指しているわけではないからであります。それ故、両方共に神とだけ訳しては不適当であります。

「神と共にあった」の冠詞をもつ神は、ヨハネ伝が語る父なる神であります。しかし「言は神であった」と訳されている無冠詞の神は、意義の上からも父なる神を意味するものではありません。しかし、もし、同じ意味に解しますなら、「はじめに言があった。言は父なる神と共にあった。言はその父なる神であった」となり、全くおかしいことになります。またあとの方のセオス、すなわち、冠詞なきセオスがもし、なんらか実体的神、藤原氏の言う「子なる神」を指すものといたしますならば、ロゴスがもう一人の神となって、二柱の神が語られることになり、多神論への屈服となります。

要するに「ロゴスは神であった」の冠詞なきセオスを、神と訳さず、説明語のdivineと訳したモファット訳は、原著に忠実なものといえましょう。>(『福音論争とキリスト論』p132~133 ※「二度出てくる神」の「神」と、一つめの「実体的神」の「神」には「セオス」、「言」には「ロゴス」とルビがふられている。)

<私は、ヨハネ一・一の短文中においてこそ、セオスに冠詞のあるかないかが、重き意義をもつものであると主張したのであります。両方のセオスを、実体的に解釈すると二神論となり、同一のセオスを示すことになればこの一文は、「言は父なる神と共にあり、言は父なる神である」といった変なことになりますので、冠詞をもたないセオスは説明語として、モファツトの如く訳すことが正しい、と主張したのであります。>(同上、p192)

<この冒頭の一節が成り立つ為には、どうしても冠詞の有無のセオスの間に、意味の上からも、内容の上からも明らかに差がなければなりません。そしてヨハネ伝全体からみて、数少ないホ・セオスは――とくに一章一節のホ・セオスは――明らかに「父なる神」(唯一の神)を示しております。そうすれば、ロゴスの方のセオスは、「神」とは訳せない筈であります。それは当然、説明語と見るべきであります。>(『キリスト論・ドイツの旅』p154)

ホ・セオスが「父なる神」――唯一の神――を意味する以上、セオスを、それと全く同様に「神」と訳すべきでないことは当然なことであります。(中略)ヨハネ伝の著者の意図は、ロゴスは本来「父」にのみあてはまるホ・セオス(神)ではないことを示すために、冠詞をつけず、ただセオスを適用したものと考えられるのでありまして、interpreter's Bible も主張致しておりますように、セオスは主語であるより、述語とみるべきものであって、それは、モファットのように、divineと訳すことが妥当であるというのであります。

もちろん、ギリシャ語には一応 divine に相当すると思われるセイオスという言葉はあります。しかし、ロゴスの説明としては、セイオスでは言いあらわしがたいものがあったために、セオスを用いたものとみるべきでありましょう。すなわち、この冠詞なきセオスにこそロゴスの微妙な性格が示されているものというべきでありましょう。要するに、ロゴスは「父のひとり子」と解きあかされるセオスなる(神的なる)人格で、たとえ「言」とはいわれても、それは決して語る言葉とはちがい、あくまでも一人格であり、創造の仲保者であると教えられるのであります。しかし、先在時にロゴス(父のひとり子)と呼ばれた人格(創造の仲保者)は――たとえそれが、イエス・キリストの先在時の呼称であっても――そのことで決してイエスともキリストとも呼ばれはしないのであります。また、呼ばれてはならないのであります。

すなわち、ロゴスはイエスでもキリストでもないのであります。それ故、イエスもキリストも創造に関わる仲保者でないことは当然であります。>(同上、p242~243)※小田切氏は御自分のパンフレットが英訳された際、「神性」とか「神性者」という表現についてはすべて divine nature に変え、 divinity とか deity と区別したという。英訳の典拠としてⅡペテ1:4が挙げられており(同掲書p245)、RSVでは定冠詞が付いて、the divine nature となっている。この箇所では信徒が終末的に与るとされる「神の性質」という意味。

<ヨハネ伝の著者の意図した所は、恐らくモファットが the Logos was divine と訳したところに一致するのではありますまいか。「神」(父なる神)以外に「言」なる「神」がいたというのではないと思われます。それとともに神性者が直に「神」でないことも示されているといえるでありましょう。すなわち、父なる神と共に在した「神の子」は「言」(ロゴス)と呼ばれた、神性者であったと言うことがヨハネ伝を貫く思想であって、これは二〇章三一節に書かれている、ヨハネ伝の「目的」と一致するのであります。>(『キリストは神か』p75)

 

(蛇足ですが・・・)ヨハネ福音書1:1の場合、冠詞の有無だけを根拠に「ロゴス」が神であるとかないとか論じると、「神」である理由は、冠詞は主語に付いて述語には付かないからだといった文法的主張がなされますが(上記引用にあるとおり小田切氏も、「interpreter's Bible も主張致しておりますように、セオスは主語であるより、述語とみるべきものであって、それは、モファットのように、divineと訳すことが妥当であるというのであります」と承知の上です)文的には、ギリシャ語は語順が自由であり、主語、述語、動詞の前後関係に原則はありません。だから冠詞が付かない名詞が前に出るのは、それが述語であることを意味し、その単語を強調するためだ・・・などとは必ずしも言えません。

強調する場合は必ず前に置くと決まっているわけでもありません。だからと言って私見では、「神は言であった」(ヘブライ語訳、ラテン語ブルガタ訳、ヘルダードイツ語訳など)と訳すべきだとは思いませんが、要は、冠詞の有無だけで「ロゴス」を「神」か、「神」とは区別される「神の子」かを論じることには無理があるということです。解釈としては、無冠詞のセオスを「神」とすることも、それとは区別された「神性者・神格者」と解することも可能であり、どちらかでなければならないというものではありません。

ただ、そのどちらとも言える両面的解釈に於いても、ヨハネ福音書全体の主旨に沿うのは、1章の「ロゴス」を「神」と解すより「神」とは区別される「神性者・神格者」すなわち「神の子」だと解する方だと思います。しかし小田切氏は私のように両面的解釈をするのではなく、あくまでもヨハネ福音書記者は「ロゴス=キリスト」を「神」であるとは認めていないと思っておられたと思います。

 

(蛇足ですが・・・)管理者である私自身の意見としては、ヨハネ福音書1章の「ロゴス」を「子なる神・キリスト」として解釈する教義先行の立場も、それはそれで認めればよいと思います。

どちらにせよ相対的であり、どちらがより正しいとかいう客観的な事柄ではない・・・という共通理解が必要です。少なくとも聖書の釈義については純粋に学問的・客観主義的立場は成り立ちません。記者が信仰者である以上、信仰心を抜きにしての中立的聖書解釈は無意味であり不可能だからです。

従って、聖書主義のプロテスタントでは教会主義的立場と実存主義的立場とに大別されることになります。前者においては、教会の信条・教義が先行するように、後者においては、自分自身の神関係における直観が先行し、どちらにしても文法だけを基準に是非を決めることはできず、実存的には「読み込み」は生じます。そうであってこそ自分の信仰生活に有用となるとも言えます。

誰にとっても共通して言えることは、聖書の読み方は部分にとらわれず文脈を踏まえて、当該文書全体の主旨を理解すべく心がけることが肝要ということです。だからヨハネ福音書の場合には、1章のプロローグのロゴス神話を理解するために、終わりの方の20章の31節に書かれている執筆目的、「あなたがたが、イエスが神の子キリストであることを信じるため」云々という文言が特に重視されて然りです。

もちろん「全体的」ですから、1章の「ロゴス⇒イエス・キリスト」を「父・神」であると認めない根拠はそこだけにあるのではなく、同じヨハネ福音書の中のあちこちの箇所にあります(4:22~24、5:17,30、8:49,54、9:3~4、10:33~36、13:3,31~32、14:1,28、17:3、20:17他)。

同様に、「神」と認める立場もあちこちの箇所を挙げるでしょう。だからたとえば矢内原忠雄氏が、明らかに「唯一の真の神」を派遣者である御父に限定し、派遣された御子と明確に区別している17:3を挙げ、<「唯一の真の神にいます我と、我の遣し給ひしイエス・キリスト」(一七の三)といふ御言も、「唯一の真の神」は父だけであって、キリストはそれ以下のものであるかの如くに解すべきではない。「唯一の真の神」とは三一の神であり、三一の神はその内部的関係に於いて父と子と聖霊との三つの位体である。」(~「ヨハネ伝講義」の「訣別遺訓に現れたる三位一体論」)などと「三位一体」の教義を優先した都合のよいことを述べておられるのですが、そんな「無理な解釈をほどこ」す(Ⅱペトロ3:16 口語訳)ことが許されるなら、彼ら、正統的立場が異端視するこちらの解釈の方がよほど文脈に沿う無理のない解釈だと思います。

ですから、ヨハネ伝の中で特に正統派が「キリスト=神」の典拠とする諸聖句・・・たとえば、1:18については、「ひとり子なる神」と言われているのは「神のひとり子」だと解し、10:30については、「ひとつ」というのは「実体的一」の意味ではなく小林訳の注にあるように「意志の一致」、あるいは八木誠一氏的に言えば「業・はたらきの一致」である「作用的一」の意味で解し、14:9については、10節にあるとおりイエスがその「言葉・業」によって、「父・神」の「意志」を地上に実現している有様を「見てきた」と言っているのであって、「父」の姿・形をイエスの容姿に重ねて視覚的に「見た」とか「見てきた」とか言っているわけではないと解し、20:28のトマスの「わが主、わが神」発言については、(さすがに後述の小田切氏の解釈は、私は採りませんが・・・)これはあくまでも賛美告白の表現であるから「神」と言っても実体を指示するものではなく修辞的意味で解すべし・・・あるいは「神の子」という意味に受けとることを「無理な解釈」だとは言えないはずです。

当方の「キリスト=神に非ず」の解釈に無理があるとしたら、同様に正統派の「キリスト=神」の解釈にも無理があるのであって、その相対性を認め合うことが不毛な論争に陥らないために大切ではないでしょうか?

 

ちなみに、エホバの証人の解釈を批判する立場の人(ナービーナイト?)は、ウィリム・ウッド宣教師(外国人に「氏」をつけて呼ぶことはできないので以下、「ウッド師」とする)が<冠詞がないのは、「ことばは神」の神は述語であるためです。>という指摘に対して、「何故、これが述語として使われたのかの肝心の説明がないので、(話が内容から形式に摩り替えられている点が問題で)おかしい。」と批判している(~「ものみの塔 (エホバの証人)――その狂信の淵源」)。http://www.geocities.jp/mongoler800/monomino-tou/monomi5.htm 

※このサイトは中立的立場であり、ヨハネ20:28(※20:31と書いてあるのは誤記。)やフィリピ2:6についての見解は賛成だが、ヨハネ5:18の見解や「主」についての説などには反対。

 

(ヨハネ伝1:18の「独り子の神」について)

 <この所について私が、テキスト上問題がある、と申しますと「しかし、そう書いたテキストがあるではないか」という議論も成立するのであります。しかしもしこのヨハネ伝の一章一八節に、テキスト上も内容上も問題があるというのであれば、ヨハネ伝全体から、そしてまた、更にヨハネ文書全体から検討して正しいかどうか調べてみるべきものであります。それと共にまた、聖書全体の思想と一致するか否かを検討すべきであります。このような心構えで聖書を読んでいきませんと、たまたまテキスト上問題のある所に来ました時に、これを正しく批判し、判断することが出来なくなるのであります。>(『福音論争とキリスト論』p104.p105、138~139参照

<一・一八について「独り子」とするも「神なる独り子」としても、或いは又「独り子の神」としても、何れもイエス・キリストの先在時の呼称であります。それ故――受肉前、受肉後といった「時」の介在を無視して、只平板化してキリストは「子なる神だ」「神なる独り子だ」と呼んではならないのであります。すなわち、一・一八についてはテキスト上「独り子の神」を採用したとしても、それでキリスト・イエスを「子なる神」とする根拠として用いるには「時」がきびしく介入していて、それを妨げている事を知らなければなりません。それ故一・一八のテキストについては、モノゲネース・セオスをとったとしても、父の懐にい給うた神格者である「独り子」が受肉して世に来て、人には見えない天にいます「父なる神」を啓示したと解すべきでありましょう。(中略)「父のふところにいます独り子」といえば「父」に対する「子」が語られていて、筋が通る訳であります。それが「父」の対句として「独り子の神」(神にアクセントをおいて)が用いられる事になれば、文体の構成上からも問題であります。もしアクセントを「独り子」において「神なる独り子」というのであれば、『神にいまし給う父』に対して又「神なる独り子」がいる事となって、多神論に堕する事となりましょう。又「父」の方に神なるの説明語なしに「独り子」の方にだけ、神なる説明語が附くとなれば文体上の不自然さを免れないでありましょう。又一・一四でロゴスの受肉を語っており、そのロゴスの神格者(一・一)なる事を告げている著者が使用した言葉でありますから、独り子を以てロゴスに擬した一・一八においては同じ用法で独り子の神格性を強調したものとして、このセオスを考えるならば筋が通るように思われます。すなわち、セオスにアクセントをおき、セオスを実体化して「子なる神」「独り子の神」と解するよりは、あくまでも「独り子」にアクセントをおいて「神格をもつ独り子」と解すべきが至当でありましょう。このテキストにセオスが無ければ問題がないのですが、セオスがあったとしても、ヨハネ伝の用法からは独り子の実体性が崩れ、「独り子」が説明語のようになって、セオスにアクセントをおくべきではありますまい。藤原氏はヨハネ第一書五・二〇について「キリスト新聞社訳」を推賞しておられますが、同訳ではヨハネ一・一八が「神の独り子」となっておりますことを申しそえましょう。この際更に問題視すべき事があります。それは独り子の神、子なる神なる呼称は、ヨハネ伝の中にあっても、ヨハネ伝の中のキリスト発言の中には無いという事であります。ヨハネ伝の中のキリストは、共観福音書の中のキリストと比較して、より多くの事を物語っており、説教内容も豊かであります。然るにヨハネ伝のキリスト発言の中には「子なる神」なる神については只の一度も語られてはおらないのであります。すなわち、キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。ヨハネ伝のキリスト・イエスは、いわば神とひとしいが、神そのものではあり給わぬ「神の子」でありました。キリスト御自身がそうであったように、使徒達も又キリスト・イエスを神とひとしいと迄証言しても、神とは証言しなかったのでありまして、このことが使徒書翰或いは使徒の名を冠せられた文書の中に「子なる神」の語られておらない理由であります。>(同、p143~145)

 附加されている「神」をのぞいたほうが、すなわち「ひとり子」のほうが、他のテキストおよび全聖書と全く調和し、何ら問題を生じないことが明瞭であれば、当然その無理でない判定に従うべきでありましょう。>(『キリスト論・ドイツの旅』p219p221、230~231参照)

 

(同じくヨハネ伝1:18について写本との関係で)

<写本問題については、モノゲネース・セオス(独り子なる神)はたしかに三、四世紀迄の東方アレキサンドリヤ学派で権威とされていたものに出て来ます。しかし、モノゲネース・フィオス(独り子)の方も二つの例外を持ってはおりますが、全てのラテン系写本に見られます。(中略)すなわち、このような最古の有力な写本にも見られる訳でありますから、氏がその軍配を「独り子なる神」のテキストに挙げた「最も古い最上の写本」の一言で判定を下し得るが如きものではないのであります。要するに両方共二、三世紀迄追跡し、遡る事が出来るのでありますから、たとえその有力性の判定に優劣の意見が出たとしても決定的なものとなり難く、最後には全ヨハネ文書の思想から論ずべき問題と転化されるべきものではないかと考えられます。>(『福音論争とキリスト論』p139~140.『キリスト論・ドイツの旅』p216~217参照)

<キリスト教の教会史の中に出現した三一神論の「子なる神」の思想も、ヨハネ一・一八の誤解から生まれたものと考えられます。それは、天上物語を、全く「時」というものを無視して、直ちに地上物語に結びつけてしまったためであります。(中略)このテキストの写本に問題があり、天の交りにおいて、神と呼ばれる父に対して、また、子と呼ばれる神がいたというのでは、天上における神の唯一性が破れることになりましょう。これは、有力な他の写本が示す「ひとり子」のほうが正しいと見るべきでありましょう。>(『キリスト論・ドイツの旅』p364)

 

(ヨハネ10:30、14:9について)

<イエスの語る神は「天なる父」であります。御姿を見た者も、御声を聞いた者もおらない神であります。それ故天より来た「神の子」のみが、父を示すのであります。その意味でイエスは「わたしを見る者は、父を見る者であり」「わたしと父とは、一つである」と申されたのであります。>(『福音論争とキリスト論』p13)

 

(ヨハネ20:28について)

<トマス発言をみますに、その「我が神よ」のセオスには明らかに冠詞がついていて、ホ・セオスとなっております。それゆえ、当然ここは「父なる神」と訳してよい言葉であります。そうしますと意味の上からは「我が主よ、我が父なる神よ」と言ったことになります。ヨハネ伝の思想からは、イエス・キリストを「神の子」と呼んでも「父なる神」と呼ぶことはありえません。そうすれば、このトマスの呼びかけのホ・セオスが単純に甦りのキリストをさしているといえましょうか。トマスのようにあくまでもキリストの甦りを疑っていた、そういう人物が、突然甦りの主が現われた為に、まず驚いて「わが主よ」と叫んだことはわかります。そのトマスが感激余って直ちに目を天に向け「我が父なる神よ」と叫んで、感謝の祈に移ろうとしたということも考えられます。しかも、その時声が出ず、神よと叫んだまま絶句したものというように、その場の光景を描くことによって理解することもできると思います(中略)実は、このような解釈の必らずしも無理でない理由を申し上げますと、ユダヤ人の習慣として――それはよく新約聖書に見られるところでありますが――たとえば、彼らが癒され難い病の癒されたというような場合、その奇跡の主ともいえるイエス・キリストに感謝し、彼を讃美するということよりも、まず、直ちに天を仰ぎ、神に向って感謝し、神を讃美するということが、しばしば、なされておりました。それゆえ、トマスの場合も、異常な感謝すべき大事件に、感極まって、直ちにその眼差しを天に転じ、ホ・セオス(父なる神よ!)と叫んで感謝の祈を捧げんとした、ということも充分考えられます。そうすれば、ホ・セオスは正しくその意味をもつものといえましょう。ヨハネ伝の思想からは、ホ・セオスがキリストへの呼びかけであるということは、全く考えられないことであります。同じヨハネ伝二〇章の中で、神を「我が神」と呼んでいるイエスが、こんどは、トマスによって彼自身が「我が神」と呼ばれてその呼びかけを承認しているとは、どうしても理解しがたいことであり、もし、ここをそのように解釈致しますと、ヨハネ伝の中なるキリストの神観がうち壊されることになりましょう。それにまた、甦った霊なるキリストに語りかけるという会話を、直ちに「祈」だとなすことには、問題があると存じます。>(『キリスト論・ドイツの旅』p154~155)

ブルトマンとの対話に於いては、ブルトマンが「神学的に、重要な意味をもつものではありません。トマスの場合、瞬間的な発言で、これがドグマとなってはいけないのです。あくまでも、見えない神が、歴史的人間に出会う、という意味に解釈すべきです。」(同、p199)と述べたことに対して注では、「ブルトマンは、このトマスの告白は、イエスがまさしくロゴスの受肉であり、受肉前にいたところに帰って栄光をうけたと考え、初めから存在していた神であることを、今やみとめたことを示す言葉と解している。」(同、p204)と記されている。これは「先在」の「時」には返れないとする小田切氏の考えと合わない。※下記の(ローマ9・5その他について)でもトマス発言の解釈にふれているので参照されたし。


(「エゴー エイミ」について)

<イエスにおけるエゴー エイミは、ブルトマンが正しく主張しておりますように、これは決して「われ在り」を意味するものではありません。あくまでも「――、それが私である」という意味であります。(中略)エゴー エイミだけを独立させてわれは在るとの宣言と解釈するのは間違いであります。(中略)エゴー エイミのエゴーはそれ故主格述部であって主語なのではありません。すなわち生きたパンや光など――それは私なのであるとこのように語ったのでありまして、ギリシャ語では I am he (ヨハネ四・二六)と it is I (マルコ六・五〇)の間の動詞の人称に変化はないのでありまして、両方ともにエゴー エイミであります(ブルトマンによる)。>(『福音論争とキリスト論』p201~202)

 

(Ⅰヨハネ5:20について)

<要するに、対ドケチズム宣言の書としてヨハネ第一書を見なければ、真にこの書の主張する所とその価値とを、理解できないのであります。それ故、五・二〇のように文法上問題の所が出て来ましても、その文書の書かれた背景と目的とに反するような読み方をするべきではなく、目的に合致する読み方こそ正しいものと言わなければなりません。>(『福音論争とキリスト論』p151)

<「このかた」は「真実なかた」にかかっていて、イエス・キリストにはかからぬのが正しいようであります(グッドスピード)。>(『キリストは神か』p74)と述べておられます。口語訳で言えば、先行する「真実なかたに」(文語訳「真の者に」)と、(「その」、「彼の」)「御子イエス・キリストに」(文語訳「その子イエス・キリストに」)が接続詞なしで並列された前置詞句(文法的には副詞句)であり、指示代名詞の「このかた」(文語訳「彼」)は文脈上、近くにある語を指すので、「真実な神」(文語訳「真の神」)は「御子イエス・キリスト」(文語訳「その子イエス・キリスト」)と解するのが妥当だと言えます。

ですから小田切氏も、<「真の神にして永遠の生命なり」といわれる彼は、その前の「その子イエス・キリスト」を指すように思われるのであります。>と言われ、<そうすればこれは、使徒行伝二〇・二八以上にイエス・キリストを「真の神」と呼んだ明白なテキストとなるわけであります。>と述べておられます(『福音論争とキリスト論』p147)。

つまり以上のような訳し方では「イエス・キリスト=真の神」ということになるわけで、小田切氏としてはキリストを神とは認めない立場ですから当然、このような訳も認められません。ですから小田切氏は、<しかしこの「彼」は「真の者」を指すと主張する人もありまして、問題となる「彼」であります。>(同上)と述べて、やはり同じ文書の他の箇所を引いて、「神と神の子を対比しながら論述している」例を2箇所ほど挙げ、20節でも、「我らは真の者に居り、その子イエス・キリストに居るなり」というのは、要するに「神」と「神の子」とを対比した文であるから、そのような文の後に、神と神の子(イエス)を直結させる文がくるのはおかしい・・・だから「イエス=真の神」ではなく、「彼」は「イエス・キリスト」を指すのではなく「真の者」を指すと言われるのです(同上、p147148参照)。

たしかに「彼」は「真の者」すなわち「神」を指すと解することも可能ではあります。そして小田切氏は、前の「我らは真の者に居り、その子イエス・キリストに居るなり」という文が「真の者=神」と「その子イエス・キリスト」とを対比する文であると解しておられます。そして小田切氏は、<ヨハネは「神」と書くべき所を「真の者」と書いてしまったので、あとでその「真の者」たる彼こそ、真の神であると説明したものと解する方が、文章としても内容上からも妥当のように思われるのであります。>(同上、p148)という解釈を施しておられます。

 

ところで、この手の、「イエス=神」という解釈が可能とされている箇所(ヨハネ1:1、ローマ9:5、テトス2:13、ヘブル1:8~9、第二ペテロ1:3など)は、文法を最重視するなら「イエス=神」か「イエス≠神」か、いづれかの蓋然性が高いことになりますが、新約聖書の当時の記者が、現代人の文法的知識を前提に書いたとは限らないので、文法以外のこと、すなわち前後の文脈はもちろん当該文書の全体の主旨なども考慮する必要があり、そうなると両方の可能性があることになり、結局、読み手の実存的解釈にかかってきます。だからどこかの聖句を挙げて「イエス=神」を絶対化する正統派のやり方は独断にすぎません。ここでの小田切氏の見解の是非はともかく、小田切氏の聖書解釈の基本スタンスは、当該聖句自体だけではなく、前後の文脈、その文書全体さらには新約聖書全体から総合的に判断することです。たとえば、ヨハネ福音書のある部分がイエスを「神」と同定しているかのような表現になっていても、それを直ちに「イエス=神」の根拠聖句とみなすのではなく、ヨハネ福音書の結論とも言える20:31で「イエス=神」ではなく、「イエス=神の子キリスト」になっているので、これと照合してその表現は別の意味を持っていると判断する・・・ということです。ところで富井健という人が、「『聖書は、聖書によって解釈する』というのが正しい原則なのだ。聖書が最高権威である以上、聖書を超えた意見を我々の思いの中に入り込ませないためには、聖書の中で分かりにくい個所が出てきた場合、それを他の聖書個所と比較し、また、聖書全体の主張とも照らし合わせて総合的に解釈する以外にはない。」(http://www.millnm.net/qanda/ANGKNxQ.htm)と述べておられますが、まさにその「原則」に従えばこそ、新約聖書において「イエス=神」という教会の教義は成り立たないのです。なぜなら圧倒的多数の聖句が、「イエス≠神」を示しており(たとえばマルコ10:18、ヨハネ8:54、同20:17)、これらと「比較」すればこの第一ヨハネ5:20の場合も、「フートス」が直前にある「イエースー・クリストー」ではなく(文法的には例外的であるとしてもここはそう読めない)、「ト アレーシノス」(真実なかた)であることは明らかだからです。それは当該箇所の中だけでも言えないことではありません。なぜなら、「神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さった」(口語訳)のですから、「真実なかた」は「神の子(=キリスト)」よりも上位であることになります。そして聖書で最上位は言うまでもなく「神」です。ということは、「このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。」の「このかた」が「御子イエス・キリスト」であるわけがありません。「真実な神=キリスト」なら、そのキリストがわたしたちに授けて下さったところの「真実なかたを知る知力」における「真実なかた」は、「キリスト=真実な神」よりも下位ということになりますが、どうして「真実な神」よりも下位の者を知る知力が必要なのでしょうか?わたしたちが「真実な神=キリスト」を知っている以上、他の「真実なかた」を知る必要など無いはずです。「真実なかた」と「真実な神」とがイコールであると解さない限り、この20節は意味をなさないのです。この聖句の解釈についても、私はJ・Wの説明がとても参考になります(http://biblia.holy.jp/62-1jo-5-20.html)。

 

 

ヨハネの黙示録について)

1点めは3:14の「ヘー アルケー テース クティセオース トゥー セウー」(神の被造物の初め)の「ヘー アルケー」(初め」についてです。これもエホバの証人がイエスを被造物とする典拠として物議をかもしてきた箇所ですが、小田切氏は次のように述べています。

<創造物に先立って生れた方(コロサイ一・一五)ともしるされ、父と子との関係は、創造関係より生む関係の方が真実に近いのでありましょう。父が生むもおかしいのですが、そのような言葉でしか示されないものとして、理解すべきものなのではありますまいか。しかるに、黙示録三・一四には、「神に造られたものの根源である方」と語られてありますが、この「神に造られたものの根源である方」というテキストのテキスト・クリティクが、なかなか簡単に処理出来ないと思われましたので、深く触れることをしなかったのであります。少くも、創造の出来事においては、創造の側に立つものとして御子が語られており、この意味においては、聖書の語る被造物の側に御子が立つことはないようであります。ただ父なる神との関り合いは、父と子と表現される、そのような表現でのみ語られ、又それ以外にはいかなる表現を以て語られ得ない関り合いだ、と言うべきものなのでありましょう。そうすれば、父と子との関りの中には、創造の業の介入を認めることが出来ないのではないか、と思われるのであります。>(『福音論争とキリスト論』p191)

小田切氏にとってイエスは、<「神」でないが「神と等しい神の子」>(『キリスト論・ドイツの旅』p163)であり、北森嘉蔵師の「神でなければ被造物」という主張に対して<聖書に基づいて論ずるというのであれば、その存在について「生まれた」と表現されている人格のあることを知らねばなりません。>と応じているように(同上、p284)、この黙示録3:14でも小田切氏はイエスを「被造物」とするような解釈はしていません。ただし、「神に造られたものの根源である方」という訳の問題に慎重であるのは、「ヘー アルケー」の意味をそう単純に決めつけることはできないからです。岩波版も小河陽訳では「初めである者」と訳して、注で、<最初に造られた被造物、あるいは「被造物の初め」は「創造の源」とも訳せるから、その場合はキリストが万物の創造の原理また根源であること(ヨハ一3、コロ一15、18)を言い表している。>と記しているとおり、この部分に限ればエホバの証人(JW)のように「被造物」とする解釈も可能であり、逆に、聖書全体からみて真の本源者と言うべき「父なる神」(ローマ11:36、Ⅰコリ8:6他)と紛らわしいことにもなります。だからここは「(根)源」などと訳すのは不適当であり、「初め」がよいということになります。東方教会が「父・神」を本源とするように、万物が帰するべきはあくまでも「キリストの父なる神」であって「キリスト」ではないのです。そのキリストご自身も「父・神」に帰するからです(Ⅰコリ15:28)。

ちなみに小田切氏がJWと違ってイエスを被造物とみなさなかったのは、聖書を部分的に見ないし文法原理主義者でもないので、全体の主旨から見て、この箇所を「被造物」説の典拠とは認め得なかったからである。これに対して、聖書を「教会の教義に証しされて読んでいる」と自称したという北森氏(同上、p264)と同じかそれ以上にドグマ先行の無理な聖書解釈を書き連ねる人々のこの箇所についての解釈は、たとえば、ウッド師の場合も(『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』p107参照)、久保有政氏の場合も(webサイト「Remnant キリスト教読み物サイト」の「聖書に基づいてエホバの証人と論ずる(2) 神、キリスト、聖霊について」参照)、当然と言えば当然ですが、「アルケー」の意味をあくまでも「(根、起、本)源」に限定しよとするものです。

どちらも論拠に乏しいですが、ここでは後者だけみると、「右の聖句の場合」すなわち黙示録3・14の場合は、<「はじめ」ではなく、新改訳や口語訳のように「根源」と訳すべきです。>と断言し、その理由として、<アルケーは「はじめ」と訳される場合でも、つねに「出所」とか「起源」の意味で「はじめ」>であることと、「聖書は全体から解釈しなければならない、ということ」、「翻訳も、全体に調和する意味に訳さなければ」ならないということ、であるとしています。「根源」と訳すべきだと断言したわりには、とても論拠とは言えない理由です。

素人同士が教義論争を前提とした我田引水的聖書解釈を主張し合ったところで、何も生産的なことはありません。まさしく不毛地帯です。ここはやはり、学問的に中立性を保てる専門家の意見を聴く必要があります。同じ専門家でも福音派系はバイアスがかかりやすいので、同じ福音派に含まれてはいても信条主義的立場ではない先生に聴くのが公平であり妥当です。そこで、福音伝道者であると同時に日本の聖書ギリシア語のオーソリティーの一人であった織田昭門下のある先生に確認したところ、「アルケー」には順番的「初め」という意味が含まれており、「初め」も「源」も両方の意味がこの語義にはあるということでよいとのことでした。もっともそうでなかったら小河氏も、わざわざエホバの証人かと疑われるような「被造物の初め」などという訳にはせず、注記の「創造の源」という訳の方を用いたでしょう。しかし前者にしたのは、やはりそれ相応の論拠があるからに他なりません。

2点めは5章の礼拝対象についてです。

<北森教授も金井先生も、藤原氏と等しく五章をとり上げ、神と一緒に小羊(キリスト)をも礼拝したと解釈し、かつ主張なさっておられます。実際そうかも知れませんが、そうでないかも知れません。(中略)礼拝の対象が極めて明白に、御座にいます方(一九・四)と限定していることなどは、注目すべきことであります。すると五章だけが例外と思えなくなるのであります。>(『福音論争とキリスト論』p167)

 ヨハネの黙示録5:14については、「写本上問題の所」であると指摘し、「このような場合、原典や写本問題もさりながら、黙示録全体の光で検討することを忘れさえしなければ、ひどい誤りを犯さずにすむはずなのであります。」と述べておられます(『キリスト論・ドイツの旅』p282)。

 

(フィリピ2章6節について)

小田切氏にとって、神の子は神と同本質です。しかし神は不死だが神の子は不死とは聖書に書かれていません。それならイエスが100%の人ではなくて神の子であっても、十字架の贖罪死の意味が失われるなどということはないのです。その死は芝居などではなく、たしかに神の子の死にほかならないからです。そもそもピリピ書2章の「キリスト賛歌」は、先在の神の御子が神であったことを根拠づけるような箇所ではありません。6節で御子は「神のかたち」であったと言われています。「神のかたち」の「かたち」(モルフェー)については岩隈直氏の『新約聖書ギリシヤ語辞典』(山本書店)で、「スケーマ」が外的一時的な変化しやすい形、姿を意味するのに対して、「モルフェー」はその本質の現れとしての姿を意味する・・・というような哲学的な区別は、当時の通俗化した用法から見て無理であろうと指摘されています(増補改訂版p312)。

続いて先在のキリストは神と等しい(原形は「イソス」〔形容詞〕)と言われていますが、これが質的な意味なら、すなわち本質が同等だというのなら、それは従属(御子従位)説的解釈に矛盾せず、御子が御父と質的に同等であるのはむしろ当然のことです。御子が御父と「同質」であるとはそのことを意味します。小田切氏は「神と同質という表現が、神の子にこそ適切であって、神であればわざわざ神との同質を語る必要がない」(『福音論争とキリスト論』p82.p106参照)と述べ、神と神の子との「同(本)質」を認めています。神の子は神と同質だからこそ、受肉しても人とは根本のところで異質であるということです。「イソス」と「ホモ」との意味の違いの問題にもなりますが、「イソス」は比較する両者が存在として別であることを前提した上での比較的意味の「同じ=等しい」であって、「同一本体」(ホモウーシオス)の「同一」(ホモ)のような実体的意味の「同じ」を意味しないのではないでしょうか?

 主たる問題は「固守すべき事」(原形「ハルパグモス」<動詞「ハルパゾー」〔奪う〕)であり、<直訳は「奪いとるべきもの」。>(『新約聖書Ⅳ パウロ書簡』〔岩波書店〕p194注)とされています。これをエホバの証人(以下、「JW」と記す)の新世界訳では「強いて取ること」と訳されています。

私はJWとは全く関係なく、むしろ終末論ないしは救済論には批判的な立場ですが、それ以上に正統主義的キリスト教会に対して批判的な立場です。JWについてはキリスト論に限っては共感する点が多く、下のURLに示されているピリピ書2章の「ハルパグモン」(原形「ハルパグモス」)をめぐる解釈に限り大体は同意します。http://biblia.holy.jp/ JWに対しても、正統主義の典型たる改革派神学に対すると同様に「是々非々」で臨みます。

正統的キリスト教の側が「固守すべき事」(口語訳)とか「固執しよう」(新共同訳)といった表現を用いるのは、すでに御子が御父と同等であったという既得性を表わすためです。それは「ホモウーシオス」のドグマを読み込んで前提とした訳にほかなりません。ただし、「ハルパグモス」にも既得性の意味があります。それは「手放したくない獲物」とか「手中にあって利用したいもの」という意味です。これだけ見れば既得の意味なので、正統派の「固守すべき事」という訳も成り立つかのように思われます(松田 央氏は「神と等しいことにこだわらないで」と訳し〔『人となった神』p64〕、別のところでは「ハルパグモス」は「貴重なもの」という意味だと言われます)。

ところが、この既得性には条件があり、「強引に手に入れたため」という理由が付きます(~織田昭編『新約聖書ギリシア語小辞典』〔教文館〕)。「手中にあって利用したいもの」の方も、「ハルパグモス」が「ハルパゾー」という動詞から出来ており、その意味が「奪う」である以上、一義的にはその「手中」にあるものも奪ったものと解するのが自然であり、先在のキリストが「神と等しいこと」を奪っておきながら固守すべき事としなかったというのはあまりに無理があるので、ここはやはり未得の意味で「奪い取るべきこととせず」と訳すのが一番妥当性が高いと思います。

そして御子は「神と等しくあること」(ト エイナイ イサ セオー)を御父から奪取すべきこととはみなさなかったと解するなら、そもそも御子は御父と同等ではなかった、すなわち従属していたことになるわけです。だから、この箇所に限っては正統派の解釈よりもJWの解釈の方に軍配が上がるということになります。少なくともこのキリスト賛歌を根拠に「ホモウーシオス」を主張することは無理です。

このフィリピ2章のキリスト賛歌でよく指摘される「ケノーシス」に関しては、<創造から終末に至る「神の子の時」から見れば「福音の時」である「イエスの人生」は、いわば束の間の一時に過ぎないものと言えましょう。しかし、聖書ではこの「束の間」だけが「神の子」が「人となった時」であったというのではなく、この束の間の受肉の時以来「神の子」は「人」となって、しかも、その「人」の地位を終末迄離れることがないと語られていることが重大なのであります。これこそパウロの言うケノシスの秘義(ピリピ二・五-八)であって、神と等しくあった神の子が人になり切り、甦ってのち全く霊的存在となり、神格化しても彼自身が語ったように「ナザレ人イエス」(徒二二・八)でありました。>(『キリスト論・ドイツの旅』p182)と書かれています。

以上の箇所については小田切氏の解釈とも異なることになります。すなわち小田切氏は「固守すべき事」という訳を踏襲しておられるからです。しかしキリストが神と等しいということは、この「キリスト賛歌」の釈義とは別に成り立つことだと思います。そもそも「等しい」というのは何が等しくあったとみるかが問題です。

本質が等しいというのであれば、キリストが神の子であって(子なる)神ではないというテーゼに矛盾しません。本質が「等しい」ことと存在が「同じ」であることとは必ずしもイコールではないのです。小田切氏がキリストについて、<「神」でないが「神と等しい神の子」>(同、p163)とか<「神の子」と呼ばれる神と等しい存在が、仲保者として神と人(被造物)との間に立つことが福音の前提である>(同、p357)と述べておられるとおりです。

 

ちなみにウッド師は著書『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』(いのちのことば社)に於いて、「三位一体を信じる者は、キリストが父なる神と同一の存在であるとは主張していません。父が本質において神であるのと全く同じ意味で、キリストも本質において神である、と言っているのです。」(p126.p39参照)と述べていますが、これは確かに正統的「三位一体」論のロジックです。

そしてその場合、「神」というのは「性質」の名称となり「神」そのものに実体は無いことになります。つまり「父なる」、「子なる」、「聖霊なる」といった形容がなされてのみ意味を持つ言葉となります。しかし旧約聖書で「神」と言えば、「YHWH(ヤハウェ)」という固有の名をもってその実体を現しておられるお方のみを指すのです。その「体」は、モルモン教徒の言うような「物質的身体」ではありませんが、言わば霊的な身体性とでも言い得るものであり、いかなる意味においても「体」は無いとなれば、旧約聖書の証言から離れ、人格的存在としての関係にリアリティーを欠きます。名があるということは体もあるということを意味するのです。ただそれが客観的対象として認識することは出来ないということです。

 

正統的「三位一体」論のロジックでは、キリストが「父なる神」とは別の「子なる神」であるということは言えます。区別は出来ても分離は出来ないので、「父」や「聖霊」との関係から離れてはあり得ませんが、「子」である以上「父」と不可分です。しかしこのような正統派のロジック、すなわち、「本質・実体」は同じで「位格=人格」に於いて区別されるということが新約聖書からどの程度解釈し得るかは別問題です。

少なくとも普通に読めば、そのような区別は書かれていません。本質も含めて存在そのものが異なるのです。旧約以来の「唯一の神=ヤハウェ」と矛盾しないためには、新約聖書で言われている「神」も、「父、子、聖霊」という三者の「質」の名称などではなく、それ自体が人格的存在を示すものとして解する以外にはあり得ません。

そうなると「父なる神」はあり得ても、「子なる神」とか「聖霊なる神」というのは成り立たないことになります。あるいは、旧約で「創造主=ヤハウェ」を意味する「(唯一の)神」とは別の、異教の神々の一つとしての「神」ということになってしまうのです。

小田切氏の場合は、「神の子キリスト」は「父・神」と「本質」は同じであるということですが(小田切氏の中では「本質」と「実体」とは別概念とされていたと思われます)、私の場合、私たちが生きているこの「歴史」において実在が確認できる限りでのユダヤ人・イエスは「真に神」などではなく、常識通り「真に人」のみなので、「神=父=ヤハウェ」とは「本質・実体」は全く別です。だから、どこかは同じでどこかは別だなどという詭弁は無用です。聖書に証された「(主)イエス・キリスト」は実証的歴史には存在していません。あくまでも「世界史(ヒストリエ)」と区別された「実存史(ゲシヒテ)」とか、そういうロジックによって示される次元に存在し得るのです。そこにリアリティーの強弱・大小・優劣などは認められませんが、いずれにせよ小田切氏は、ブルトマンと直接会って対話した人ではありますが、そのような区別はしていません。「世界史」の中に「神」と本質を同じくした「神の子」であるイエス・キリストが実在したと信じておられたようです。

マーティン氏に関する箇所では、ウッド師はエホバの証人と同じく動詞「ハルパゾー」の原意にこだわることによって文脈から逸脱しています。その原意は、ウッド師のようにキリストが神と等しいことを既得権的に解することと一致しません。「ハルパグモス」は「奪い取るべきもの(事)」と訳して然りです。

ウッド師の前掲書は異端排除を旨とする正統主義者が聖書解釈を牽強付会で貫き通す姿勢を如実に現しており、その象徴的文言が「悪魔,サタン」との関係付けです。

「三位一体の教理の重要性を知っているサタンは、様々な異端のグループを通して、この教理を根底から否定しようとしています。異端の人々、特にエホバの証人がクリスチャンに出会うと、ほとんど例外なく、すぐに三位一体に関する質問を投げかけます。」(ウッド師前掲書p5)

また、この書の推薦者である森川昌芳牧師なる人物も、「異端とは何か、それは主イエスを神としないことです。したがって異端の背後にいるのはサタンでしかないことも、この書はよく教えてくれます。」(p4)と述べています。このように彼らは単純に、「反三位一体」(=イエスを神としない)⇒「異端」⇒「サタンの支配下」という論理立てをします。その勝手な独断にもとづいて独りよがりの主張をします。まるで自分たちは神の子たち・光の子たちであり、反三位一体論者は十把一絡げに悪魔の子・闇の者・この世の子であるかのようにです。これは原ニカイア信条に呪いの文言(アナテマ)を付けた古代教父の精神性なり体質を受け継いでいるとも見て取れます。イエス・キリストが「子なる神」ではなく、小田切氏が言われる意味で「神の子」であることを前提とすれば、前掲書に於けるウッド師の「従属」についての理解(p122~124)に限っては必ずしも反対しませんが、従属はあくまでも従属であり、それは神同志の関係ではなく神と神の子(前述のように「神に選定された特別な人」として象徴的意味も含めて)との関係です。そしてヨハネによる福音書14:28「父は私よりも大いなる方」というイエスの発言は(ウッド師が『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』の79頁で述べている解釈〔→当サイトの「管理人の立場」参照〕ではなく)、あくまでも従属論的意味で解して然りです。

 

(「非異教化」について)

 神が人となったというのは異教的だが、神の御子が人となったことは異教的ではないと言い切れるのか疑問です。小田切氏が天使をはじめ、アブラハムやモーセやエリヤを「神性者」と解されることにも疑問が残ります(『福音論争とキリスト論』p49)。ただし「神性」には神と神の子との間、神の子キリストと神の子一般(信徒)との間の区別を付けておられます(同、p50)。そもそも何をもって異教的とするかという基準の問題があり、古代イスラエルの宗教にもカナン宗教乃至はオリエント諸宗教の影響がみられるし(たとえば神の「王権」という考え方や、神を「聖なる」と形容することや、創造信仰など~関根清三著『旧約聖書の思想 24の断章』〔講談社学術文庫〕p150151)、紀元前6世紀のバビロン捕囚および帰還以降の初期ユダヤ教ともなればバビロンやペルシャの思想が入っており、個人の復活という思想は紀元前2世紀のマカバイの反乱以降に入ったものと云われています(大林浩著『死と永遠の生命』〔ヨルダン社〕p59他)。新約聖書はヘレニズム時代に流入したペルシャ的二元論やギリシャ的思考の影響を多分に受けています。イエスの時代の後期ユダヤ教に支配的だった黙示思想は、フォン・ラートによればユダヤ教本来のものではなくペルシャ宗教に由来するとのことです(同、p66)。小田切氏が聖書およびキリスト教について「異教」と言うとき、おもにギリシャ思想が考えられているようですが、心身二元論の影響もあります(同、p6768)。だから小田切氏の言われる聖書の中に介入した異教思想(『キリスト論・ドイツの旅』p319)とは具体的にどういうことを指すのか、「非異教化」を言うにしても基準なり範囲をある程度は定める必要があると思います。ただし明らかであるのは、小田切氏は特にⅠペトロ3・18以下の「陰府に下り」の箇所を異教的であるとしています(同、p318~319、360)。そして「非聖書的」であるといわれる「第一の天上物語(先在物語)」にもとづいてイエス・キリストを「神」と言うことも小田切氏にとっては「非異教化」されるべきことであったでしょう(同、p251参照)。

 

(「天上物語」の区別について)

その「天上物語」の第一と第二の区別に関して引用します。これは上記のヨハネ伝1章「ロゴス(=キリスト)賛歌」についての小田切氏の釈義と関連します。

ここにいわゆる「天上の物語」を結末づけなければならなくなりました。イエス・キリストの先在を語るという第一の「天上物語」と、受肉後の「地上物語」との間には、きびしい断絶があって、その間にはなんらの具体的つながりを見い出すことができません。すなわちロゴスがキリストだということも、キリストがロゴスだということも成立致しません。「ひとり子の神」のテキストを、たとえ真実なものとしましても、「天上の物語」の中なる「ひとり子の神」は、イエスでも、キリストでもありません。(中略)先在を語る第一の「天上の物語」と、受肉後の地上物語との間には、絶対的断絶がありますのに、「地上物語」と、甦って昇天したことによる第二の「天上物語」(黙示録)との間には決して断絶がないのであります。(中略)要するにわれわれは、聖書が第一の天上物語(先在物語)から地上の歴史物語に飛躍し、神の子キリストの「地上物語」の終末にあたっては十字架のできごとを示して、神の救済を語り告げ、最後の敵である死を亡して甦ったという点に、地上の人の子の救済の成就を示すとともに、第二の「天上物語」が神話的第一の「天上物語」とは異なり、きわめて地的な天上の物語として、それは歴史の人の救いとして示されていることに注目すべきであります。要するに、第一の「天上物語」は、いかなる意味においても「地上物語」とは直結致しません。それゆえ、ヨハネ文書を用い、あるいはコロサイ書、ヘブル書などを用いて、イエス・キリストを神であるとか、神こそイエス・キリストであるとかいう議論は、全く非聖書的であります。(中略)創造に関与した人格が「神のひとり子」「ロゴス」「御子」と語られておりますが、それは決して、歴史のキリスト・イエスではないという――あたりまえのことを主張しなければならない理由がある――のであります。(中略)神の子イエス・キリストは天に昇ってもなお「人」として取り扱われており、(中略)たとえ昇天して神的人格となっても、異教の如くに「神」と呼ばれず、また、ロゴスに復帰したとも語られず、あくまでも「人」であるというところに、キリストに従って救われる「人」が、「彼のいます所に共におらしめられる」(ヨハネ伝一七・二四)という形で救いが語られるのでありましょう。そこには、グノーシス神話にも似た、天上から世に来て再び天上に戻る人格が語られておりますが、受肉によって「人」となったことと、死んで甦り、天に昇っても「人」のままである所にグノーシスとの重大な差を見い出すのであります。>(『キリスト論・ドイツの旅』p239255

ただし、このような「第一の天上物語(先在物語)」に対する批判的視点が「非神話化」による解釈につながらず、そのこともあってイエスを「神性者・神格者」とみなし、呼び名の区別はどうあれ、イエスと「先在のロゴス」との連続性を示している点では限界があったというかオーソドックスだったのだと思います。このことに関しては、当サイトの「小田切氏の福音論概観6」の<●「仲保者宗教」としてのキリスト教>参照。

 

(小田切氏の聖書解釈について)

小田切氏が文法主義者ではなく全体の主旨から解釈する立場であることは、「文法に多少の問題があっても、全般との調和を破る様に読むべきものではありません。聖書は正にその様に読むべきものであります。五章二〇節も真実なかたに真実な神がかかるのでありまして、著者は明らかにキリストを神とする偶像化を注意しつつ、その書を終っているのであります(五・二一)。」(『福音論争とキリスト論』p77)、<特に問題のテキストがありましたならば、その前後を読み、或はその書を貫ぬいて読んでみる必要があるのであります。また時には、聖書全体の光に照らして読んでみることも必要となるのであります。そのような読み方が非常に大切なのであります。>(同、p97)といった言葉に現れています。繰り返しますが、小田切氏は聖書主義者ではあっても文法主義者ではないのです。そして補強としていくつかの英訳にあたり、結論としては、<ヨハネ第一書を貫く、イエス・キリスト観より致しますならば、イエス・キリストは「神」に対する「神の子」であり、「御父」に対する「御子」であって、決して「神」とはなっておらないのであります。それ故、問題の五・二〇もまた「テキスト」を検討するとともに、あくまでもこの書全体の光りで判断すべきものであると存じます。かく検討を加えてみますなら、これは「イエス・キリストを真の神」と呼ぶ意味のものではないことが理解されるのであります。>(同、p149)と述べておられます。このような釈義も、前述の小田切氏の解釈方法を典型的に表わしていると言えます。小田切氏にとって「真実なかた」(「真の者」)は父なる神であり御子キリストではないということです。文法的常識とは別に、神の子キリストがわたしたちに授けて下さった知力は何を知るためのものだったかと言えば父なる神であり、「真実なかた」(「真の者」)はこの唯一の神を意味するとみる方が無理が無いからです。これは文法を軽視することではなく、どちらにでもとれる場合は部分的な意味よりも全体的な主旨が優先されて然りということでしょう。その主旨ですが、小田切氏は<「イエス・キリストは真実な神だ」とは読み得ない>理由として、「もしそのようによみますなら、ヨハネ文書のもつ神観とキリスト観が忽ちくずれてしまう」と述べておられます(同、p77)。このような論議を「学的論議」(同、p86)と言えるかどうかはともかく信仰は学問に制限されるべきものではありません。ましてや神学を職としてはいない信徒の立場であればこれで充分ではないかと思います。むしろあまり専門的な細かい議論に立ち入ることは小田切氏が言われる「ハート」(パトス)の面が減退し墓穴を掘ることにつながるかも知れません。それこそ霊的な意味で危険です。

 

 (ローマ9・5その他について)

ローマ9・5については『キリストは神か』で、「口語訳で以前の誤訳が訂正され、解決されております。」と述べています。問題となる箇所の口語訳は、「肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな,アァメン。」です。これが前の文語訳(大正改訳)では、「肉によれば、キリストも彼等より出で給ひたり。キリストは萬物の上にあり、永遠に讃むべき神なり、アァメン。」となっていて、「キリスト=神」となっていました。明治の元訳も同様です。しかしこのような訳を小田切氏は「誤訳」と断定され、口語訳では「訂正され」たと述べておられるわけです。「キリスト=神」を認めない小田切氏の立場では当然と言えば当然です。そしてその根拠として言われていることは以下の通りです。
<協会訳の訳者たる優れた学者達がこの一節についてなんらの不備をも表明しない限り、そしてまたロマ書八章迄のパウロのキリスト観が正しく理解せられる限り、そして更にパウロのもつキリスト論と聖書全般のキリスト論が明らかである限り、この一節は協会訳の如くに読むのが正しい読み方なのであります。カール・バルトは、この一節について、その文法的な強さにも関らず、ツアーンのように『あげられ給うた主に対して、セオス(「神」)なる語を用いた全く唯一の用例』となす意見を承認する決心がつかないと述べております。三位一体を主張し、自らはキリストを神となしているバルトでさえ、その論証として取り上げることをせず、協会訳や北森教授もまた敢て取り上げなかった箇所であることを考えますならば、やはり学者と言われる人々のとりあげるべき箇所ではないようであります。だいいち、ロマ書九章のすぐ前の八章を見ただけでも、パウロのキリスト観がよく理解されて、誤読の余地がないのであります。(中略)「神の子らの群れの中における長子」とキリストを呼び、昇天して神の右に座して、とりなしているものとしるしたパウロが、その主張のすぐ後で(そのすぐ次の章で)「キリストは万物の上にあり、永遠にほむべき神なり」といったとすれば、神の長子や、神にとりなす仲保者が消えて、忽ち「神」そのものになってしまい、パウロのキリスト観が全くくずれてしまうのであります。>(『福音論争とキリスト論』p6667
ロマ書の8章に加えて更にロマ書の冒頭およびコリント前書8章や15章を引いておられます。これも前述の小田切氏の聖書解釈の方法の例です。特に近接する章の内容との整合性を指摘するやり方はヨハネ伝20:28についての釈義と同じです。このように、協会訳の正当性、逆に言えば、文語訳のように「キリスト=神」となる訳し方の誤りを説いておられるわけですが、現在の新共同訳は文語訳と同様の訳し方をしており、文法的にはどちらの訳し方も可能であることに変わりありません。ですから小田切氏も、「ロマ九・五は聖書の中で、句読の仕方により幾通りにも読める一例として、よくとり上げられるもの」(同、p153)と記しておられます。協会訳のような訳し方よりも文語訳や新共同訳の訳し方が支持される理由としては主として2点あり、1点めは、文型的にみて形容詞の「エウロゲートス」を詠嘆的意味に訳すことに無理があること。2点めは、1:3~4に示されているようにパウロはキリストについて両面を対照的に語るのであり、この5節も前半はキリストで後半は神について述べているのではなく、全体がキリストについて述べているのであり、前半は人としての面で後半は神としての面を表わしていると言えることです。私見では協会訳の方が分が悪いと感じます。小田切氏も文法的な見方だけで言えば、バルトに関して「その文法的な強さにも関らず」と述べておられるように、必ずしも協会訳の訳し方が絶対的だとは思っておられなかったと思います。しかし釈義は文法だけで決まるものではないので、他の箇所から総じて理解される「パウロのキリスト観」に照らして、この箇所だけに限らずパウロの言葉を「キリスト=神」の意味で受けとめることは誤りとされたのでしょう。とにかく小田切氏の結論は、「パウロのキリスト証言からは、協会訳の正しい事は、当然なのです。」(同、p21)とか「この一節は協会訳の如くに読むのが正しい読み方なのであります。」(同、p66)ということです。
 

『福音論争とキリスト論』の第九章に掲げられている「問題の聖句」には含まれてはおりませんが、ヨハネ伝20:28の使徒トマスの言葉「わが主よ、わが神よ」についてはいくつかの解釈を述べておられます。第1に、「わが神」は冠詞(ホ)付きで記されていることとユダヤ人の慣習を根拠として、キリストに向けられた「わが主」とは分離されるべき天の父なる神に向けての感謝の祈りであるということです(『キリスト論・ドイツの旅』p154155179参照)。しかし、これを八木誠一氏は無理があると指摘され(『神学と医療との間』〔創文社〕p248)、有名な聖書学者のR・ブルトマンも<それは無理ではないでしょうか。「わたしを見る者は、父を見た」という言葉の徹底したものだと思います。(中略)人びとは、キリストに祈るのではなく、キリストの名で神に祈るのです。トマスの場合、ホ・セオスは、「見える神」の意味でしょう。>(『キリスト論・ドイツの旅』p198)と述べています。第2に、「ここはトマスの驚いて叫んだ言葉を語っているのでありまして、ヨハネ伝の著者自身の意見を語っているものでないことは、二〇章三一節にあるヨハネ伝を書いた目的の言葉を見ればよく分るのであります。しかもこの冷静な目的標語が、トマスの叫びのすぐあとに記されてあることにも、注意すべきでありましょう。ヨハネ伝ばかりではなく新約聖書は、イエス・キリストを決して神とは呼ばず、あくまでも神の子と呼んでいるという所に、聖書の独自なキリスト証言があり、そこに聖書の真理の秘義があると言うべきであります。」(同、p7)ということ(同、p73参照)。ではトマスは復活のキリストの何について驚いて叫んだのかといえば、「神と見紛う神性に満てる人格」すなわち「神格にみちた人格」であったからだと言われています(『福音論争とキリスト論』p206)。

第3に、「要するに問題は、弟子が彼を何と呼んだかより、彼は自らを何と示したか、そしてまた自らを何人となすことを求めたかにあるのであります。」(『福音論争とキリスト論』p107)ということです。ここでも、小田切氏の釈義の特徴は個々のテキストの文法的議論にとどまらず、他の関連箇所や文書全体、聖書全体の思想との整合性に言及されてゆきます。そこには御自身も自覚しておられた「飛躍や独断」(『キリスト論・ドイツの旅』p191)も少しは感じられますが、そのような弱みも親近感につながるし、そもそも信徒の立場で神学者に論争を挑む上では、まさに論争というべき知恵と力とが必要だったのだと思います。

小田切氏は、<エペソ書四章では「主は一つ」「父なる神も一つである」と言い、Ⅰコリント八章では「唯一の神」に対し「唯一の主」として、イエス・キリストが語られており、Ⅰテモテでは神を「唯一」と呼び、さらに「唯一の仲保者」があって、それが人間イエス・キリストであると明記しております。これは、実に注目すべき発言であります。私共は、新約聖書は「唯一の神」と「唯一の主」(唯一の人間仲保者)とを区別していることを知るのであります。そして当然「唯一の主」は「唯一の神」に対して、もう一人の「神」と呼ばれてはならないことも、ここにおいて明らかにされているものと存じます。それとともに、その「唯一の神」と「唯一の主」との関係については、Ⅰコリント一五章に、この「唯一の主」は「唯一の神」に――時、至りて――従うべきものと、明白にその秩序の差を示しているのであります。>(同、p170)と述べておられ、エフェソ4:5~6「一人の主、一つの信仰、一つの洗礼、唯一の神にしてすべてのものの父〔であり〕、すべてのものの上に、すべてのものを貫いて、そしてすべてのものの内にいる方」云々はともかく、Ⅰコリ8:5~6「多くの神々や多くの主が存在する〔と言われている〕ように、たとえ神々と言われるものが、天においてであれ、地上においてであれ、存在しているとしても、しかしわれらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕、その方から万物は出て、われらはその方へと〔向かう〕。そして唯一の主イエス・キリスト〔がいるのみ〕、その方によって万物は成り、われらもその方による。」、ましてやⅠテモテ2:5「事実、神は唯一人、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」は、明らかに小田切氏の解釈のとおり、「神」と「キリスト」とが対象的に区別して書かれています。ところが詭弁を弄するドグマティストは、<ロマ一一・三六とⅠコリント八・六との同一内容の文章を比較しますと、前者における神が、そのまま、後者においてはイエス・キリストと記されています。それゆえ、パウロにおいてはイエス・キリストは「神」なのではありませんか。>(同、p170)だの、<パウロが一方で神について語っていると同じことを、キリストについて語っているならば、それは当然キリストを神と告白していることではありませんか。パウロには、このような神とキリストとの置き替えがよく見られます。とくに、Ⅰテモテ二・三に「わたし達の救い主である神」と書いてある所は注目すべきであります。なぜなら、他の所は皆キリストだけが救い主であるからであります。>(同、p171)などと言っています。これは、「唯一の神=唯一の主(キリスト)」という意味ではないです。「唯一の神」はあくまでも「キリストの父」であり、「唯一の主」はあくまでも「キリスト」であるとの了解が前提としてあります。つまりⅠコリ8:6やⅡテモ2:5のように多くの人が見て、「神=父」と「主=キリスト」との比較対照的表現だと感じること自体は否定されていないのです。キリストのことだけを「神」と「主」という別々の表現で繰り返し強調しているという意味ではないのです。もしそうなら「キリスト一神論」になりますがそうではなく「神とキリストとの置き替え」というのですから、「父=神」と「子=キリスト」との区別は前提とされています。問題は、その両者が存在・実体として「同一」というのではなく、「等しい」と言われていることです。正統派のドグマでは、「同一」であるのは「本質」であって存在そのものではありません。存在は別個ですが、両者は「等しい」ということが、これらの聖句に示されているというのです。共に「唯一」という点で「等しい」のだから、「子・キリスト」も「父・神」と同じく「神」であると告白されている・・・というロジックです。「唯一の神・父」と「唯一の主・子キリスト」とが区別されつつも「等しい」・・・故に「キリスト=神」というわけです。果たしてこんな屁理屈が通用するでしょうか?「三位一体」の教義では、「唯一の神」は「父」だけではなく「子」と「聖霊」との三位一体全体なので、その点では矛盾するし、二神論的弱点があります。しかし小田切氏はそこを突くことはせず、<神と等しく取り扱われているから「神」であると結論づけるのには問題があります。なぜなら、「神の子」も神と等しく取り扱われているからであります。私は、神と等しいといわれている「神の子」にこそ、聖書の秘密があると当初から主張し続けているのであります。>(同、p171)と応じています。これは私のようにイエスの神性を認めない「史的イエス」主義の立場では立ち行かないところで、イエス・キリストを「神」とは認めずとも「神性・神格」を有する「神の子」と認める小田切キリスト論の強みであると言えます。

ちなみにウッド師は上記のⅠコリ8:6やⅠテモ2:5がヨハネ20:17や17:3とともに、エホバの証人がキリストの神性を否定するために用いる箇所であると述べ、Ⅰコリ8:6については以下のとおり、揚げ足取りのような反論をしています。

<エホバの証人は、父が「唯一の神」と呼ばれている以上、キリストが神ではあり得ないと主張しますが、この論法にしたがうなら、キリストが「唯一の主」と呼ばれているわけですから、キリストだけが主であり、父は主ではないということになります。しかし、マタイの福音書一一章二五節で、キリストは父なる神のことを「天地の主であられる父よ」と呼んでおられるのです。また、ユダの手紙四節には、「私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリスト」とありますが、この聖句によって、父なる神も支配者であり主であることが否定されるわけではありません。これは「唯一の神」という表現についても言えます。父なる神に対してこの表現が用いられているからといって、キリストの神性を示しているみことばが打ち消されるわけではないのです。>(『[エホバの証人]の反三位一体論に答える』p84~85)※このようなウッド師の揚げ足取りは他の箇所、たとえばⅠコリ11:3の「キリストの頭は神」について「もしそうなら、男が女のかしらだから、女は人間ではない、ということになってしまいます」といった、「もしそうなら・・・・」と別のことにすり替えるやり方、そして自分に都合のよい聖句を持ち出すやり方として現われています。この場合はルカ福音書から11:51を出してきて、キリストは両親に従ったのだから神にも自主的に従ったのだというわけです(ウッド師前掲書p122~123参照)。実に説得力を欠く姑息な反論です。否、これは反論というより、何か言わないと負けになるので、とりあえず何がしか言ったというだけのことで、反撃して勝ちに行けないからせめて引き分けに持ち込もうとする考えでしょう。学問的内容ではないので、そう思われてもおかしくないです。でも、この程度の解釈のぶつけ合いでは、どちらの解釈もあり得るということで相対性を確認するにすぎません。そしてこのウッド師の根本的な誤りは、「主(キュリオス)」という称号の意味を区別せずに論じていることです。「父なる神」について言われる「主」は旧約聖書のヘブライ的意味の「主」すなわち「ヤハウェ」という固有名を意味します。これに対して「子なるキリスト」について言われる「主」はヘレニズム的意味であり、端的には「神」ではなく「神的存在」です。『NTD新約聖書注解7 コリント人への手紙』では6節について次のように記されています。

<「主」というのは当時のオリエントの諸宗教に広く見られる神の称号であったが、ギリシア世界にも入り込み、とくにヘレニズム・ローマの支配者崇拝と、救済者としての神性を拝する祭儀とにおいて、非常な意味を持つに至ったものである。「主」(キュリオス)という称号の中には、つねに神の尊厳と支配や超地上的な力が、またしばしばキュリオスの名で呼ばれる神性の救済力が含まれている。けれども、唯一の真の神は世界の創造者であり(中略)キリストは創造の仲立ち(コロ一16)であり、かつキリスト者の仲立ちであって、集会は彼によって成るのである。(中略)パウロがここでキリストの先在と世界創造における仲立ちとを教えていることは明らかである。キリストはまさに仲立ちとして、かつ永遠の神の子として主なのである。>(p143)。

小田切氏は、<神によって立てられた「地位」>であると述べています(同p173)。だから新約聖書の中で同じ「主」という言葉が「父なる神」に対してと「子なるキリスト」に対して言われていても、同じ意味で解してはならないのです。そして「神」と言えば聖書では「父=ヤハウェ」のみです。その点はウッド師も、エホバの証人が「キリストと神が区別されている箇所」としてもち出すというⅠテモ5:21に関して、<キリストと神が別個の存在であるかのように書いてある箇所は、ほかにもたくさんありますが、これらの聖句の場合、「神」とは、父なる神のことです。>と述べています(同、p85)。しかし次が問題です。<新約聖書において、父なる神とイエス・キリストとのことが混同されることを防ぐために、通常、「神」という表現は父に対して使われ、キリストに対しては「主」ということばが用いられています。しかし、これでキリストの神性が否定されるわけではありません。それは、後ほどふれるように、「主」という名称はキリストの神性を表しているし、また、キリストは直接「神」と呼ばれる箇所があるからです。>(同、p85~86)と言うのですが、このようなウッド師の理屈では、小田切氏のようにキリストの神性を認めながらも「神」とは認めない立場(<「神」でないが「神と等しい神の子」>〔同、p163〕)に対しては反論できないことが明らかです。それは北森嘉蔵氏が「教会の教義に証しされて聖書を読む態度」と言ったという(同p264)、聖書よりも教会のドグマを優先する誤った態度の限界を示すものでしょう。Ⅰコリ8:6については織田昭氏の講解で言われている「神とキリストの二重写し」説が参考になるので、当サイトの「管理人の立場」を参照して下さい。織田氏はパウロにとってのキリストの神性・神格を認めてはおられますが、それはウッド師のような「三位一体」のドグマを読み込む仕方ではなく、実存的意味での「二重」性なのです。ただ、織田氏にも問題があることは指摘させてもらいました。その1つは「二重写し」というのはパウロの実存的神観でありキリスト観なので、そこにとどまることは牧師や神学者自身にとってはよくても不特定多数の他者を相手にする宣教には通用しないということです。信仰対象が曖昧では普遍的宗教にはなりません。もう1つは、織田氏が採用している訳の問題であり、新共同訳と新改訳では、「万物/すべてのもの」は「この主によって存在し、「わたしたちもこの主によって存在しているのです。/私たちもこの主によって存在するのです。」と、訳語に「存在」という言葉が使われていますが、青野太潮訳では「その方によって万物は成り、われらもその方による。」となっていて「存在」などという訳語は用いられてはおりません。なぜなら重きは前半の方にあるからです。「その方によって万物は成り」というのは、「創造者」ではなく「創造の仲保者」を意味します。その「によって」(ディア」という媒介を意味する前置詞が重要です。これが「その方から万物は出で」といわれる「唯一の神」の「本源者=創造主」としての性格に対比されているのです。実際、ここでは「ある」とか「なる」とか「いる」といった動詞は省かれています。だから「唯一神」の「その方から(出て)」と「唯一主」の「その方によって」との比較対照で、前者が「本源者」、後者は「媒介者」であることを示されます。M・ヘンゲル著、小河陽訳の『神の子 キリスト成立の過程』〔山本書店〕に於いてもⅠコリ8:6について、「父は創造の根源であり目的である。それに対してキリストは仲介者である。」と明言されており、パウロにとってのキリストの特徴として「創造の仲介者としての身分を持っていること」が挙げらています(p23)。また、高橋敬基氏も当該箇所について『新共同訳新約聖書註解Ⅱ』(日基教団出版局)で、「父なる唯一の神は万物の起源であり終局なのである。これに対し主は万物の(創造の)仲保者として捉えられている。」(p94~95)と述べ、松永晋一氏も当該箇所について『新共同訳新約聖書略解』(同上)で、「創造の仲保者としてのキリストの宇宙論的役割と、人間の救いの仲保者としてのキリストの救済論的役割を示す」(p456)と述べています(なお、松永師によると「唯一の・・・・父である神・・・・唯一の主、イエス・キリスト・・・・」は恐らく初代教会の一つの告白定式〔つまりパウロの独創ではない〕とのこと)。ですからウッド師や織田氏のように、「唯一に父なる神」と「唯一の主イエス・キリスト」とが独自の働き・役割に応じて対照的に語られている・・・と解さず、あくまでも「唯一の神=唯一の主」といった教義的前提で解釈することはパウロ書簡全体の主旨から見て誤りであると言えます。なお、八木誠一氏は次のように述べておられすます。

キリストは存在者と相関的であり、存在が「どのように」あるべきかの定めであるゆえに、それは究極的なるものではあるが、なお最終の究極者ではない存在者が「ある」ことの根源が神なのであり、ゆえにキリストは神の子・神の言なのである。(中略)キリスト(存在の原型)も聖霊(原型の成就者)も神によって創造されたのではないが、神から出る。すなわち神は存在の維持者(Ⅰコリント三・七、Ⅱペテロ三・七)、究極の統治者(ヨハネ黙示録一九・六)として、また歴史の支配者、摂理の神なのである(エペソ三・二以下、ローマ九~一一章)。>(『キリストとイエス』〔講談社現代新書〕p147)

このように「父・神」と「子・キリスト」とは、「究極者」と「究極的なるもの」との大きな差異があるのです。前者は真の「絶対者」であり、後者は言わば「絶対的相対者」です。両者にはこのような区別があり、織田氏のように単純に「飛躍」して共に「存在させる者=創造者」として「二重」化することは出来ません。仮に「二重写し」説を採るとしても、その「二重」はパウロに於いては、「キリストの頭は神」(Ⅰコリ11:3)、「キリストは神のもの」(Ⅰコリ3:23)、「御子自身もまた、すべてのものをキリストに従わせた方に従わせられるであろう。」(Ⅰコリ15:28)といった言葉から、そして何より、「(唯一の父なる)神」と「イエス・キリスト」と信徒たちとの関係に於いて、キリストは常に媒介者としての役割を持つことが「ディア」という前置詞によって示されているように(ローマ16:27他参照)・・・、「父・神」と「子・キリスト」との関係は上下・主従の秩序を踏まえたものでなければ認められません。

 

「三位一体」を信じない者はキリスト者にあらず?
小田切氏は、<北森教授によれば、三位一体を信じないでは教会に属するキリスト者といえないかの如くでありますが(二月号)、一体、父なる神を信じ、神の子イエス・キリストを信じ、聖霊を信ずるということだけでは、キリスト者とはいえないというのでありましょうか?(中略)私は三位一体を信じて北森教授より「キリスト者」と認められるより、聖書の証言のみを信じて、使徒達及初代キリスト者と信仰を共にする方を選ぶものであります。>(『福音論争とキリスト論』p51)と述べておられます。たしかに聖書は、「神・神の子・聖霊が語られても、そこには教義が示すような意味での一体の思想は見当たらない」(『キリスト論・ドイツの旅』p312)と思われます。小田切氏は同様の見解として、前田護郎氏が「新約中に三位一体を思わせる箇所があるけれども、それは三つであることTriasであって必ずしも三位一体Trinityでない場合が多い。また、新約全体から見ると、これらの箇所は福音書や手紙で周辺的又は修辞的色彩を帯びる場合があることも否定できない。ここに挙げた諸箇所が存在することは大きな意味があるが、これらだけで三位一体を新約が示すとはいい難い。」(『ことばと聖書』〔岩波書店〕p261)と述べておられることにふれておられます(『キリスト論・ドイツの旅』p313314)。また、<婚姻の秩序は、たとえ如何に「一体」と語られても、あくまでも夫は夫であり、妻は妻であります。花婿は花婿で花嫁は花嫁であります。そのようにキリストはキリストで、教会は教会であります。それ故、第四世紀になって出現した三位一体の教義を語る「一体」を、もし以上のような意味に解釈いたしますならば、父なる神、神の子、聖霊が一体として語られてよいのでありまして、三位なる非聖書的言葉の作製は必ずしも必要が無かったのではありますまいか。(中略)万物がキリストに帰一し(エペソ一・一〇)そのキリストが神に帰一して(コリント前一五・二四及び二七~二八)ここに一つの王国――神の国が形成せられ、父なる神・聖霊・神の長子とその兄弟らと、更に天使と語られる存在や万有の全てが一つとなり、一切が一つの国――王国のものとなるというのが、聖書が物語る神の国の完成であり、一つとなることの意味なのではありますまいか。藤原氏はマタイ二八・一九というテキスト上問題視されるものや、コリント後書一三・一三の所謂祝禱の原型に於て、神の三一性を強調されますが、しかしそこには父、子、聖霊が語られ或は、主イエス・キリスト、神、聖霊が語られても一体とは語られていないことに注意すべきであります。>(『福音論争とキリスト論』p197~198)と述べておられます。その
一方では、「私としましては、キリスト論の論争から導かれた三位一体の教義これは例え聖書のテキストからは発見出来ない教義であっても、キリスト教史上に必要があって現れ出でた教義でありましょうから、それがいかなるものにしろ、一応重要視すべきものであると思うのであります。」(同、p58)と述べておられます。

 

(蛇足ですか・・・)その「重要視」というのは、私見では、神の三位一体やキリストの二性一人格といった正統教理を聖書主義的立場から否定し去るのではなく、これも一つの聖書解釈のあり方として認めることです。もちろん、教会の公会議で決定されたことだから真理であるというわけではなく、その根拠はあくまでも相対的です。しかしその相対的教会制度なくしては、肝心の福音は歴史を超えて未来に向けて宣教されることもあり得ないのです。小田切氏が指摘しておられるとおり、イエスを神とみなすことは妥当性の低い聖書解釈ではありますが、そのような解釈を公的に選択するに至った当時の教会が置かれていた状況というものがあるわけです。自分がキリスト教徒であると言う以上は、好むと好まざるとに関らず、その公認された聖書解釈が教会の中で教義として機能し、自分自身も信徒としてその制約を受けることは受け入れなければなりません。しかし、たとえばプロテスタント教会において牧師が、信条・教義を神秘化し絶対化し、信徒個々人の多様な聖書解釈を否定し、説教で聖書のテキストに「三位一体」を読み込むようなことをする場合には、これを(非難ではなく)批判する自由はあって然りでしょう。キリストの「神・人二性一人格」についても同様です(東方教会には少数ですが非カルケドン派の教会があります。またルーテル教会の9信条にカルケドン信条がないことについては「属性交流」説との関係が指摘されています)。だから私自身は、なるべく煩雑なる教義の制約を受けず、より自由な信仰状態を保持し得るようにと、使徒信条のみを信仰告白とする非信条主義教会に籍を置いているのです。小田切氏も、所属しておられた札幌独立キリスト教会が信条主義ではなかったので、基本信条の制約も強くなく、小田切氏のような(一般のキリスト教会では「異端」と呼ばれるような)信仰的立場も許容されていたのではないかと思われます。現代の教会現場では、基本信条なり正統教義を認めるか否かの二択ではなく、信徒各人が自身の神関係と聖書に基づいて、告白定式をどのように解釈するか?という実存的問題になるのではないでしょうか?

正統教理とされる「三位一体」には一般に、「内在的(または本体論的)三位一体」と、「経綸的三位一体」の両面があるとされますが、どちらかというと後者の方が聖書的であると云われます。ちなみに野呂芳男氏によると、「ブルンナーは、歴史とのかかわりあいにおける経綸的三位一体論は認めるけれど、歴史とのかかわりあいをはずれた本質的三位一体論は認めないとはっきり書いている」(『神学と医療との間』p301)とのことです(この場合の「本質的三位一体論」とは「内在的(または本体論的)三位一体」論と同じ)。

いずれにせよ、三位一体論などは古代から現代に至るまで神学者の間でも定義については議論が分かれており北森氏の場合も様態論的であるとの批判もなされているくらいなのですから、教会現場では告白定式での一致にとどめて信徒各人の実存的解釈にゆだねることが実際的なあり方だと思います。(3へ続く)

 

《御案内》

これは、小田切信男氏の福音論を伝えるサイトです。小田切氏は、「私のキリスト論はむしろ福音論ともいうべきものであって、この論争もキリスト論論争というよりは福音論争とこそいうべきものであります。」(『福音論争とキリスト論』序文 p3)、「私にとって、福音とはキリスト彼自身でありました。それゆえ、私のキリスト論はそのまま福音論であります。」(『キリスト論・ドイツの旅』p189)と述べておられます。

 

【キリスト・イエスが唯一無二の人格でありますから、神もまた唯一の神たる性格を持つのであります。すなわち、キリスト教においてはイエス・キリスト御自身は神ではなく、神といえば必ずイエス・キリストの父なる神なのであります。私共は初代のキリスト教徒達が神々の思想及び信仰の渦巻く異教の世界に福音を宣教するに当って「新しい神」「子なる神」としてイエス・キリストを伝えなかったことを深く考えてみなければならないと思います。(中略)二十世紀の中葉を過ぎた今日、聖書にはない安易な教義の中に安住して初代キリスト教徒達の深い体験とその宣教の真実さをうち忘れてはならないのであります。(中略)イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。】(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p13~15)