小田切氏の福音論概観 3

小田切氏と八木誠一氏
小田切信男氏が日本のキリスト教史においてどのような働きをされたのかを、生前に交流された一人である八木誠一氏のお言葉を引用すると、<一般的に申しますと、小田切氏の御貢献、それは「ナザレのイエスが神である」というテーゼが問題を含んでいるということを、現代状況において明るみに出されたことである>ということであり、<小田切キリスト論の正しい点、先ず正しい点を申しますと、ナザレのイエスが新約聖書においては神とはされていないということ、これはたしかにそのとおりであると思います。この点は二つありまして、先ずテキストの上から言いまして「ナザレのイエスが神である」とは言われていないということ、また第二に事柄上のことといたしまして、すなわち聖書の証言というよりも、事柄上のことといたしまして、ナザレのイエスは神ではあり得ないということ、この二つに分かれます。>(第15回キリスト論研究会シムポジウム~小田切信男著『神学と医療との間』〔創文社〕p246)ということです。そして、「ナザレのイエスは神ではなくて、人間であるというのは、これは二百年間の歴史研究の、少なくとも批判的な研究の結論であると私は申してよろしいかと思います。」と述べていますが、一方では
八木氏も「新約聖書は、のちにニカイア・カルケドン信条で展開されたような三位一体論を、インプリシットにつまり明らかな形ではないけれども、内包していると思うのです。」(同、p256)とか、「新約聖書には三位一体ということは自覚的に語られてはいないけれども、事実上三位一体の関係が語られている。だからこそ古代教会の教義の発展において、三位一体論の形成が可能だったのである。」(『キリスト教は信じうるか』p197)と述べています。よく言われることは、三位一体そのものは新約聖書に明示されてはいないがその萌芽は認められるという言い方です。

たとえば青野太潮氏の次の言葉です。「三位一体の神というとらえ方の萌芽は新約聖書の中にあるにはあるが、その後の教会史において確立されたような理解は新約聖書の中にはまだない」(『「十字架の神学」の展開』〔新教出版社〕p5)

私見では、三位一体の萌芽を聖書の中に認め得るとしても、それは「内在的=本体論的」三位一体ではなく「経綸的」三位一体の方だと思います。

また、八木氏や荒井氏など東大古典学派の師である前田護郎氏は、「新約中に三位一体を思わせる箇所があるけれども、それは三つであること Trias であって必ずしも三位一体 Trinity でない場合が多い。また、新約全体から見ると、これらの箇所は福音書や手紙で周辺的又は修辞的色彩を帯びる場合があることも否定できない。ここに挙げた諸箇所が存在することは大きな意味があるが、これらだけで三位一体を新約が示すとはいい難い。」(『ことばと聖書』〔岩波書店〕p261)と述べておられます(『キリスト論・ドイツの旅』p313~314)。この「トリニティー」と「トリアス」との区別が重要です。

 

八木誠一氏は『キリスト教は信じうるか』(講談社現代新書)の中で小田切氏についてこのように述べておられます。

小田切信男はイエスは神ではないと主張して問題を投げた(中略)小田切氏の主張は全く正当な点を含んでいる。小田切は、「ロゴス」と「ナザレのイエス」と「復活のキリスト」を時期的に区別する。しかし彼の場合、この三つは本質的にはなお連続的にとらえられている点があるので、折角の正しい主張が充分に生かされていないように思われる。実は「ナザレのイエスは、ロゴスと上下相互内在の関係にあるひとりの人間だ」とする場合にはじめて、ナザレのイエスがひとりの人間であることも、イエスとして受肉したロゴスは「まことに神、まことに人」であることも共に正当に成り立つのである。>(p199)

このような批判は八木氏が前掲の第15回キリスト論研究会シムポジウムで、「ナザレのイエスは、これは人間である。ただの人間である。即ちロゴスに従って生かされた、ロゴスに即した、ロゴスにあらしめられた人間である。人間であるという点でわれわれとは何の違いもない。ただわれわれはロゴスに即して生きてはいないところが違うわけです。」(小田切信男著『神学と医療との間』p255)と述べていることからわかります。八木氏のいう「ロゴス」とは要するに神の働き(作用)であり、「(復活の)キリスト」・「神の支配」・「統合への規定」です。受肉したロゴスとは「自己」を意味します。八木氏からすれば小田切氏のイエスは「ただの人間」ではないということでしょうがそれはそうです。小田切氏の場合は聖書の歴史的批判的研究に学んではおられますが、前述のとおり基本的にオーソドックスであり福音主義なのです。だから非神話化への接近は抑制され、「受肉」についても先在のロゴスを認めています。そのロゴスと史的イエスと復活のキリストが同じ「神の子」として連続線上に捉えられるのは一般的クリスチャンと同じです。

ところで、「福音のギリシア化」に関するテーゼと言えば自由主義神学のA・V・ハルナックです。彼は原始キリスト教がギリシャの思想によって汚染されたと考えたのです。小田切氏はハルナックの説についてふれておられ(『キリスト論・ドイツの旅』p311)、原始キリスト教に関して、異教社会での教会形成であったが故に「福音の純度を失わしめることとなった」(同、p319)と述べています。

小田切氏と野呂芳男氏
冒頭でふれたカール・マイケルソンが教授をしていた米国ドルー大学に学び、小田切氏の葬儀の司式をされた組織神学者の野呂芳男氏は、第15回キリスト論研究会シムポジウム(~『神学と医療との間』の「五 キリスト論にかかわる小田切提案を廻って」)の中で、<神は、三でなくて一つなので、三が同時にイコール一だなどという数学方程式は成り立たないではないか。だから一は一で、三は三であり、唯一の神はやっぱり唯一なのだから、三位一体論は成り立たないというような、先生のお話をどこかで承ったことがあるように思うのですけれど、私はこれが神学的に非常に重要なモチーフを中に含んだ三一論の否定だと思っております。それは何かというと、神の人格性を最後迄守ろうという意図がその中にあるからだと思うのであります。即ち神が唯一であるということ、それは人間と本当の意味で我と汝の形において対決する神である。(中略)そういった激しい人格的な邂逅があるんだからその邂逅をくずすような三一神論などというものはまっぴらご免だと、こういうような動機が私はあるように思うのであります。実は私はそれに心から共鳴するわけであります。でキリスト教というものが、こういう意味での唯一神論というものを捨てたならば、私はたかだか一つの哲学に転換するだろうと思うのです。やはり組織神学を勉強する一人の人間といたしまして、この点を無上に尊いものとして評価したいと思うのであります。>(p271272)と述べて小田切氏の主張に理解を示しています。たしかに神を唯一と告白するヘブライ的伝統には契約相手に求められる誠実さとの関係があるでしょう。「イマゴ・デイ」の論理からしても人間の精神構造が基本的に「一人格」であるのは「神」が「一人格」だからだとも言えます。もっともその「一」についての学説も一義的ではなく、ヘブライ語の「一(エハード)」はともかく、ギリシャ語「一(ヘイス)」は「多」と矛盾しない旨のことも言われるので、「三人格の神」を説く「三位一体論」そのものを否定することは現実的ではなく、聖書的「神」観の多様性を尊重してその絶対化を否定する、即ち相対化する方が現実的です。しかし小田切氏の「反・三位一体」の動機の中心はあくまでも聖書主義的キリスト論であって、聖書からみてとれない「子なる神」としてのキリストを語っているから反対するわけです。単に数理的に不合理だから反対というわけではないのです。小田切氏の場合は福音主義の伝統である「十字架の福音」の視点に立つわけです。小田切氏が、「人が神になる」ことだけではなく「神が人になる」ことも否定したのは、相対は絶対になり得ないと同時に、絶対が相対化したらもはや絶対ではないからです。神がその絶対性を保持したまま人間イエスになったという考えはキリスト教が異端として排除した様態論に当たります。野呂氏はいったん小田切氏に共感しながら、同時に批判もあると言って、「ニケヤ・カルケドンの信条」を「アンテオケ型の路線」で解釈すればよいのだと擁護しています。

また、「今日における神観の一問題」という論文では、小田切氏については「YMCA同盟発行『開拓者』昭和30年12月号より同31年6月号にわたる両氏の論争は実に興味深い。」とか「小田切氏には、贖罪を歴史的出来事とする点での情熱が強烈であったと思える。」と述べています。また主著の『実存論的神学』(創文社.1964年)では、北森嘉蔵氏との論争に関して「両氏の発言が、聖書のテキストの発言内容を明確化しようとするところにそのおもな意図をもっていたということを前提にして考えるならば、その限りにおいては小田切氏の方が正しかった、と私は思う。聖書には初代教会のキリスト論や三位一体論はない。聖書の中にカルケドンのキリスト論、しかも、そのシリルス的な解釈を読みこもうとされていると思われる北森教授の発言は、その点危険であると言わなければならないのではないだろうか。」と述べています(p428~429)。シリルスとはアレキサンドリア学派でネストリウスを異端とした論敵でキリストの神性と人性との統一を強調した人物です。カルケドン信条の両性一人格はネストリウスの神人二性の区別(=分離ではない!)との妥協の産物であり、この信条はシリルス的理解とネストリウス的理解とに分かれ、野呂氏は後者を正しい解釈であるとみています(前掲書p280~281参照)。

北森氏について前掲論文では、前述の共感と批判が用いられ、「神の不受苦性」の代表的な主張者であったアタナシウスに対する「神の痛み」の神学者としての北森氏による、「アタナシウスが見た神の本質が、聖書に示されている神の真実の姿のもつ一つの決定的なもの、つまり、神の痛みを失っている」ということや、「ペルソナという語も、カパドキアの神学者たちが既にそうしたように存在様式(tropos hyparxeos)の意味であって、ここにも本質と同じように、今日のわれわれが言う意味での人格的なものはない」ということについて正当であるとしながらも、その後ではアタナシウスにとっての神は哲学者の神ではなく聖書にもとづく神学者の神であったのだと弁証しているわけです。是々非々ということでしょうか?

論文「実存論的なキリスト論への一試み」の後記では、「此の論文を書くにあたって北森嘉蔵教授と小田切信男博士との間に行われたキリスト論論争に刺激された。(「開拓者」(日本基督教青年会同盟発行)昭和三十年十二月号より同三十一年六月号)、此の論争は最近の日本における最も生産的なものの一つであったと私は思う。」と述べています。http://www.geocities.jp/yoshionoro/1959kirisutoron.html 
『実存論的神学』の「あとがき」ではこの論文に関して次のように述べている。

<私がこの論争に関する評価を石原謙博士嘉寿祝賀論文集「基督論の諸問題」に掲載された小論「実存論的なキリスト論への一試み」の後記の中に書いたことを通じて、それ迄は互いに面識があるという程度でしかなかった小田切信男博士との間に、親しい友情が生れるようになった。こういう事情も手助って(「手伝って」とすべき誤りだろう。~管理人)、この論争について私は相当詳しく調べあげた。この論争を今私が振返ってみて感ずることであるが、両氏とも、カルケドン信条のキリスト論のシリルス的な解釈が、唯一の理解の可能性であることを前提にして論争されている。北森教授の発言は、イエスにおける神の犠性が、神の自己犠牲であって他者犠牲でないためには、父なる神と一応は区別される神の子が、神でなければならない。さもないと、神の自己犠牲について発言することはできない、という発想からなされている。それに対して、小田切博士は、神の子は受肉されたが、その神の子は神ではなく、神性の所有者であったと主張されている。このような発言が――小田切氏の言葉を使うならば――非異教化という意図からなされている。すなわち、神が人間になるというような異教的な思想は、日本の宗教・文化史的背景を考慮する時に明らかなように、非常に危険であるが故に、むしろ、聖書の中にある神の子の受肉というキリスト論に、われわれは止まった方がよいと主張されている。小田切氏のこの主張の背景には、札幌独立教会の会員である氏のもつ、無教会主義的な聖書主義があるのではないかと私は思う。(中略)両氏の発言が、聖書のテキストの発言内容を明確化しようとするところにそのおもな意図をもっていたということを前提にして考えるならば、その限りにおいては小田切氏の方が正しかった、と私は思う。聖書には初代教会のキリスト論や三位一体論はない。聖書の中にカルケドンのキリスト論、しかも、そのシリルス的な的な解釈を読みこもうとされていると思われる北森教授の発言は、その点危険であると言わなければならないのではないだろうか。また、神の痛みに関する小田切氏の反対は、神とキリストの間に根本的な断絶をみようとする刑罰代償説的な同じ意図からでていると思われる。併し、神の子の受肉としてのキリストと言う小田切氏の主張は、聖書の神話そのものの明確化であり、この神話をどのように解釈して行くかが、今後の課題ではないだろうか。>と述べています。

 

野呂氏はまた、「講義「ユダヤ・キリスト教史」第38回――アウグスティヌスの生涯と思想(1998.3.17)」において、<「ヨハネによる福音書」(1030)にある「私と私の父とは一つである」というイエスの言葉は、決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。ティリヒも主張していたように、イエスが神を透けて見させてくれるガラスのような存在であるというのが、キリスト論であるならば、私にとっては、聖書のイエスを通して透けて見えるものは、神ご自身というよりは――人間に神ご自身が全部分かるなどとは私には信じられないので――神の人間に対する意志であろうと思える。> と述べ、三位一体論が「聖書には元来存在しない信仰」であると述べています。さらに続けて、「古典的な三位一体論は、父、子、聖霊が三つの位格(ペルソナの複数)でありながら、しかも一つの本質(substance)である(tres personae in una substantia)としているが、この場合のペルソナは、今日のパーソナリティの意味ではない。(後で述べる神学者カール・バルトが言うように)神の存在のあり方を言っているものである。>(同)と指摘しています。

 

 

 

 ●ヨハネ10:30の「一つ」の解釈

ヨハネ10:30については三一論に関して特に重要箇所の1つなので、他の聖句とは別個に独立した項目として扱います。

小田切氏は、ヨハネ伝の10:30や14:9について、<天より来た「神の子」のみが、父を示す>という意味だと述べ、<聖書の「一つ」とは、イコールとの意味ではなく、むしろイコールでないものにおいて成立する言葉であります。(中略)要するに聖書の立場からは、「父と一つ」とのイエスの御言葉からは、イエスを神となす理由は生れては来ないのであります。従って北森教授の「イエスを神とする」根拠は、聖書の中にはないのであります。>と述べておられます(『福音論争とキリスト論』p1314、『キリスト論・ドイツの旅』p133134)。小田切氏に於いては、「一つ」の解釈について実体的意味と関係的意味との区別が曖昧なので、「イコールでない」と主張しても説得力に欠けます。そこを野呂氏の言葉で補うことが出来ます。ここでの「一つ」は関係論的に解されるべきであり、野呂氏が述べておられる「自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、自分が行い語っていることは父の意志そのものである」というのは八木誠一氏の言われる(「実体的一」と区別された)「作用的一」を意味するものと思われます(ヨハネ伝5:30、10:38他参照)。岩波委員会(小林稔)訳の10:30の脚注でも、「敵対者はこれを自分を神と等しいものにしたととっているが、意志の一致、全き従順ととることも可能。」と記されています。

福音派の陣営に属した織田昭氏でさえも次のように述べています。

<子は父と一つである――ヨハ10:30、同5:21.

「一つの存在」という哲学的な命題ではなく、存在論的な「同一者」の断定でもなく、子の意思が父の意思と完全に一致し、子が人の救いのためにする業は、そのまま父の業であることを見よと、読者に命じている言葉である。>(織田昭著『新約聖書講解集 第一コリント書の福音』〔教友社〕p373)

これは八木氏の言うところの「実体的一ではなく作用的一」という見方に一致する理解です。つまり「三位一体」だの「二性一人格」だのといった哲学的・存在論的解釈は、キリスト教会が制度的組織として肥大化してゆくに伴って、初期の信仰共同体の多様性を統一して「正統―異端」の境界線を引く必要から生じてきたものであって、そのような組織的キリスト教とは違う在り方の無教会主義的エクレシアに於いては(否定はせずとも)絶対的なものではないということです。私見では、個人信徒の実存的信仰生活ではむしろ聖書解釈の妨げにもなるので必要ありません。  

 

小田切氏は、<キリスト・イエスは「父と一つ」を北森教授や藤原氏の如く、神であること、神と一体であることの意味に語っていないのは、キリスト・イエス御自身で「神の子」の意味だと語っておられることで、理解されるのであります。そしてその「神の子」とは、ユダヤ人のいうように「神」ではないからこそ、どうして「神を汚すもの」というのかと反問されたのであります。氏は、わざわざ太い字で「神の子」と語ったイエスを、ユダヤ人が石で打ち殺そうとしたのは、「その神の子」が神を意味していたからではないか、と述べておられますが、よくテキストを見ますと、どうも大分違うようであります。ユダヤ人が、イエスが自らを神としたものと解釈して打ち殺そうとしたのは、イエスが「父と一つである」といった時であり、決して氏の言われるように「神の子」、といった時ではありません。またその後に、イエスが「父と一つである」ということは、「神の子」を意味するのだ、と説明してからは、ユダヤ人はイエスを殺そうとはせずにむしろ、「イエスを捕えようとした」(三九節)、というのであります。>(『福音論争とキリスト論』p188~189)、<キリストは『父と一つである』と宣言して、ユダヤ人から「神」と自称したとの誤解を受けましたが、キリストは、すぐその場でその言葉の意味を説明しておられることに注目して頂きたく思います。キリストご自身の釈義にからすれば「父と一つである」ということは「神の子」であるということだというのであります(ヨハネ伝一〇・三六)。それゆえ、私はその通りに信じたのであります。「神の子」は父である「唯一の神」の唯一性を危うくすることになってはならないと思います。キリストは確かに、自らを「神」と宣言したことはありません。聖書では神の主体性と「神の子」の主体性とが相対するものとして示されて、ヨハネ伝では、遣わした者と遣わされた者、祈られる者と祈る者との対峙を明らかにしています。しかし、キリスト以外に神を全く啓示しうる者がないとの意味では、神がキリストの中にあったといわれるのでありましょう。しかし、それも、彼が唯一の啓示者であるとの意味でありまして、決して、彼が「神」自身であることを意味するものではありません。>(『キリスト論・ドイツの旅』p133~134)と解説しておられます。私見では、34節と35節の「神々」(~詩篇821,:6他。異教の「神々」を指す)について、もう少し考慮すべきだと思います。イエスは、ユダヤ人が律法の冒瀆規定を根拠に自分を石打ちの刑にしようとしたことを逆手に取り、同じ律法に「神の言葉を受けた人々を神々と言っている」ことを根拠に、「自分は神の子だ」と言って何が冒瀆だ!?と言い返しているわけです(ただし詩篇82篇の「神々」は異教の神であり、支配階級と連動しており、「神の言葉を受けた人々」ではなく、むしろ神の言葉を聴かない者であり、死ぬ存在)。
もし、イエスが「神」であるなら、ここで、「わたしは神である」と言ったからとて、どうして神を冒瀆していることになるのかと言ったはずです。と言うのは、神の言葉を受けた者が「神々」と言われてよいなら、イエスが神の言葉を受けていると自任し実践している以上、自分をその「神々」の一人として「神」であると言うことも出来たからです。しかしイエスの言い方はそうではなく、神の言葉を受けた者が「神々」と呼ばれてよいなら、(「神」以下の)「神の子」と呼ばれることに何の問題があろうか、という意味を込めているわけです。しかし福音書の中でも特にヨハネ伝のイエスの発言には史的信憑性は低く、この言葉などまさに著者のものである感じがします。

「私と私の父とは一つである」の「一つ」が「私=イエス・キリスト」と「私の父=神」の「実体的一」とみるか、それとも「私=イエス・キリスト」と「私の父=神」の意志・働きの一致としての「作用的一」とみるかという区別とは少し違うかも知れませんが小田切氏も出エジプト記3:14の「わたしはある」(エフイェ)について「本体論的意味」と「現象的意味」とを区別しておられます(『福音論争とキリスト論』p200)。この聖句については小田切氏も<「父と一つ」とのイエスの御言葉からは、イエスを神となす理由は生れては来ない>と述べてはおられますが、問題はその理由です。ヨハネ10:30およびその前後の文脈を含むテキストの釈義としては上に引用した小田切氏の解説で充分ではありましょうが、もし小田切氏が、聖書でキリストを冠詞付きの「神」(セオス)と呼ぶ箇所をも実体的に解釈せず、八木氏や野呂氏のように関係論的に解釈されたなら、「神の子」と「神」との区別にこだわる必要もなかったかも知れません。何故ならキリストが神と「一」だからといって、必ずしも実体としてイエス・キリストを父なる神と同一の存在だということにはならないからです。神の意志と一致した働きをしているイエスに対してはその「一」ゆえに「神」と言う表現もあり得るでしょう。そこまで厳密な呼称の使い分けをする必要もないはずです。使徒トマスが復活のキリストに対して「わが主よ、わが神よ」と言ったことも、実体として唯一の神だとする言葉ではなく、あくまでも讃美告白の表現として「神の子」ではなく「神」と言ったとも言えます。

小田切氏も「実体」という言葉を用いておられます。すなわちヨハネ1:1について、<無冠詞のセオスは、セオスでもこの場合、実体的神を指しているわけではないからであります。それ故、両方共に神とだけ訳しては不適当であります。(中略)あとの方のセオス、すなわち、冠詞なきセオスがもし、なんらかの実体的神、藤原氏の言う「子なる神」を指すものといたしますならば、ロゴスがもう一人の神となって、二柱の神が語られることになり、多神論への屈服となります。(中略)要するに「ロゴスは神であった」の冠詞なきセオスを、神と訳さず、説明語のdivineと訳したモファット訳は、原著に忠実なものといえましょう。>(同、p132~133.p142参照)と述べておられます。また、ヨハネ1:18については、「モノゲネース セオス」の<セオスにアクセントをおき、セオスを実体化して「子なる神」「独り子の神」と解するよりは、あくまでも「独り子」にアクセントをおいて「神格をもつ独り子」と解すべきが至当でありましょう。このテキストにセオスが無ければ問題ないのですが、セオスがあったとしても、ヨハネ伝の用法からは独り子の実体性が崩れ、「独り子」が説明語のようになって、セオスにアクセントをおくべきではありますまい。>(同、p144)と述べています。さらにキリスト・イエスについて、<勿論その実体は天使にひとしい(ルカ二〇・三六)霊の体をもっていても>云々と述べ(同、p171)、ヨハネ1:1について「両方のセオスを、実体的に解釈すると二神論となり」云々と述べています(同、p192)。

なお、福音論争ではヨハネ伝が福音書における主戦場の観を呈して多くの聖句が取り扱われているにもかかわらず、御父と御子とが同一体ではないとする典拠として好適であるはずの8:16~17が挙げられていないことに私は疑問を感じます。しかしその反面、5:19,30に着目されていることは重要です(同、p106参照)。
ところで、ヨハネ伝10:30は古代教会史に於いて200年頃に現れたといわれる様態論者のノエトスという人物が自説の典拠として持ち出した聖句です。異端とされた側がこのイエスと御父とが「一つ」であるという意味の聖句を重んじたわけですが、その理由は子なるキリストが父なる神ご自身であるという神の独裁(モナルキア)を主張するのに都合がよかったからです。しかしヒッポリュトスは『ノエトス論駁』に於いて、「である」は原文では1人称単数ではなく1人称複数であることを指摘し、この場合の「一つ」が(「実体的一」を意味する)「存在性(ウーシア)」ではなく、(「作用的一」を意味する)「力と意志の一致」として解すべきことを論じています(水垣渉、小高毅編『キリスト論論争史』〔日キ教団出版局〕p92参照)。私はこの箇所はイエスは「実体的一」の意味で言ったのではないのにユダヤ人たちがそのように誤解し、イエスが自己神格化していると思い込んだものと解釈します。いずれにせよこの話は、この聖句を正統主義者が「キリストは神である」というテーゼの論拠として持ち出す意味も無いということも示しています。しかしそれなら、「である」が単数形で書かれていたと仮定して、その場合はイエスが自分を神と実体的に同一の存在だと言ったことになるのかと言えば決してそうとは言えません。そこに文法主義の限界があります。ですから小田切氏が再三、問題とされたヨハネ伝冒頭の「テオス」の冠詞の有無にしても、記者が書き落したのかも知れないし、そもそも深い意図はなかったのかも知れないし・・・で、そのこと一つでイエスを「神」とみなしているか否かなどを決めることは出来ません。記者が我々が考える文法規則などを細かく意識して書いたと前提することに原典釈義の最大の問題があるのです。

 

イエスの「わが神」、その3つの場合

上記の、御父と御子との「一つ」(一体)ということの議論に関連して注目すべき聖書箇所があります。それは、イエスが父なる神と実体的に「一つ」であるとするなら矛盾するイエスの言葉であり、信徒が福音書を読んでいて三位一体との関係では素朴に疑問を感じる箇所の最たるものでしょう。それはイエスご自身が御父を「わが神」と呼んでいる箇所です。小田切氏は、<イエス・キリストが語った「わが神」のなかに、福音論争としての「キリスト論」の極致とを帰結を認めることが出来ると信ぜられるのであります。>(『福音論争とキリスト論』p209)と述べておられます。これが、ここでイエスの「わが神」発言の箇所も他の聖書箇所とは別に独立して扱うべき主たる理由です。イエスが神を「父」と呼んでいる分には三位一体も成り立ち得るかも知れませんが、イエスご自身が御父を「わが神」と呼ぶのでは、唯一神教を前提とする限り、小田切氏がドケチズム思想といわれる「イエス・キリスト=神」は成立し得ないことになります。これは小田切氏の福音論の主たるテーマである「キリストは神か」についての聖書の有力な答えでもあります。

そのイエスの「わが神」発言について、小田切氏は3つ指摘して独自の解釈を施しておられます(同、p205208)。1つめは十字架上での詩篇22篇冒頭の言葉のヘブライ語もしくはアラム語で(もちろん他の言葉も全て、おそらくアラム語で言われたのではありますが)言われた「わが神」(マルコ15:34、マタイ27:46)。2つめは復活後にマグダラのマリヤに対して弟子達への昇天告知を伝言した時の「わが神」(ヨハネ20:17)。3つめはヨハネの黙示録(3:12,12)の「わが神」です。
小田切氏は、1つめの<十字架上においての呼びかけである「わが神、わが神」には罪を贖う者としてのイエス・キリスト>を、2つめの<甦りの瞬間において語られた「わが神」には神ならざる仲保者としての立場を宣言したイエス・キリスト>を、そして3つめの<黙示録においては事実神と等しく讃美されても、神に対してはあくまでも「わが神」と呼ぶ立場を持する存在として――神ならざる「神の子」たる存在として、救済史的には永遠に屠られし小羊として、しかも同時にまた、ダビデの子孫たる地上存在を継続する者として――それだけに神ならざることを宣言したイエス・キリスト>を、それぞれ示していると述べておられます(同、p208)。

さらに、2つめの「わが神」について、<神性に満ちて――光り輝いて神の如くにさえ見られる甦りの主が、十字架上においてだけ用い給いし「わが神」を、何故更に再びここで(ヨハネ二〇・一七)用いられ給うたかが、きびしく瞑想されなければならないでありましょう。イエス・キリストはトマスが叫んだように、今後彼自身が神とせられることを懸念なさり、ここで自らすすんで神を「わが神」と呼び、彼が神と呼ばれてならないことを、すなわち、自らを全く人の側に立たしめ、弟子たちを「兄弟たち」と呼び、共に神を拝さんとの決意を示したものと解釈してはどうでありましょうか。ここにも神とされるかも知れないということを憂えた甦りのキリスト・イエスが、率先神ならざることを示したもの、と考えてはどうでありましょうか。ドケチズムと戦ったヨハネ伝のことでありますから、このように解釈されてもよいのではありますまいか。>(同、p207)と述べておられます。また、この箇所についてはハンブルク大学でのクレッチマー教授との討論の中でもふれられています。<イエスの人格について学ぶならば、ヨハネ伝では、二〇章から始めるべきであるといわれ、トマスの発言である「我が主、我が神よ」を指摘されました。しかしもし、そのような目的でヨハネ伝二〇章を取り上げますならば、二八節のトマス発言よりは、むしろ一七節の甦りの主であるイエス・キリストご自身の発言の方を取り上げるべきだと存じます。すなわち、ここでは、死人の中から甦ったイエス・キリストがご自分で、ご自分の人格証言をなさっておられるからであります。すなわち、キリストご自身と「神」との関係と、彼と彼の弟子達との関係とを自ら明らかに語っていることを知るのであります。(中略)これは甦ってからの発言としてヨハネ伝の中でも特筆すべき言葉であるばかりでなく、新約聖書の中でもその意味において、最も注意を喚起すべき重要な個所であると存じます。ここでは甦った、いわば神的イエス・キリストが「神」を明瞭に「わが神」と呼んでいるからであります。それゆえ、もしイエス・キリストを「神」であるといいますなら、その神にはまた「我が神」と呼ぶ、もう一人の神がいることとなって、「唯一の神」の思想が破れることになりましょう。イエス・キリストによって説かれ、かつ啓示された神は、広く人間の神であると共に、また、イエス・キリストにとっても「我が神」でありました。>(『キリスト論・ドイツの旅』p152153
3つめの「わが神」については、<天上のイエス・キリストが神をわが神と呼んでいることの中に、あくまでも神の側に立つ――神と「一体」といわれるように神の側に立つ存在として自らを示さず、神をわが神と呼び神ならざるものの側に立ち給うことを教え示し、これを以て彼を神となすべからざることをさとしているのではありますまいか。>(同、p207208)と述べておられます。
要するに、イエス・キリストが言われた「わが神」という言葉には、ご自分は「神」ではないというメッセージが込められていたということです。これは実に興味深い解釈であり、キリストを「神」とはみなせないとする主張の有力な典拠になると思われます。なお、「三位一体論の神観は、決してイエス自らいわれたものではなかったのです。しかし、イエスが言われなかったで、後に教会の決定したものがあります。」(同、p152~153)とも
言われています。

(4へ続く)

《御案内》

これは、小田切信男氏の福音論を伝えるサイトです。小田切氏は、「私のキリスト論はむしろ福音論ともいうべきものであって、この論争もキリスト論論争というよりは福音論争とこそいうべきものであります。」(『福音論争とキリスト論』序文 p3)、「私にとって、福音とはキリスト彼自身でありました。それゆえ、私のキリスト論はそのまま福音論であります。」(『キリスト論・ドイツの旅』p189)と述べておられます。

 

【キリスト・イエスが唯一無二の人格でありますから、神もまた唯一の神たる性格を持つのであります。すなわち、キリスト教においてはイエス・キリスト御自身は神ではなく、神といえば必ずイエス・キリストの父なる神なのであります。私共は初代のキリスト教徒達が神々の思想及び信仰の渦巻く異教の世界に福音を宣教するに当って「新しい神」「子なる神」としてイエス・キリストを伝えなかったことを深く考えてみなければならないと思います。(中略)二十世紀の中葉を過ぎた今日、聖書にはない安易な教義の中に安住して初代キリスト教徒達の深い体験とその宣教の真実さをうち忘れてはならないのであります。(中略)イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。】(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p13~15)