小田切氏の福音論概観 4

福音の歴史的発展という詭弁
キリスト教正統主義の立場では「三位一体」や「二性一人格」といったドグマを神秘化し、「福音の発展」(『キリスト論・ドイツの旅』p165167)として絶対化します。これに対して小田切氏は、「私は福音の歴史的発展とか、進歩性とかいったことを考えることができないのであります。むしろ、福音に歴史的発展とか進歩とかいった概念をもち込むこと自体が、極めて危険であると思っているのであります。」(同、p166)と応じておられます。また、「聖書の中にさえ、このように異教思想が介入しているのであれば、その後のキリスト教史に現われてきた、聖書にはない思想の凡てを、聖書からの正しい発展とのみ言いきれないもののあるということに醒めなければならないと思います。」(同、p319)と述べています。制度的組織としての教会という船なくしては、福音という宝も歴史の波濤を越えて世々に遍く宣べ伝えられることもなかったことも事実ですが、聖書それ自体の内容と教会組織の宣教内容とは必ずしも一致したとは言えないのであり、この2つの事柄を教会は「発展」とか「進歩」といった言葉で結びつけることには無理があります。

 

小田切氏が語る「秘義」
神学者や司祭・牧師は、信徒の疑問に答え得ないような都合の悪い事柄については「秘義」という言葉を用いて煙に巻こうとすることがよくあります。たとえば北森嘉蔵氏は、「死に得る人間イエスが神である事が秘義である」と述べました。これに対して小田切氏は、<ひどい秘義を創作されたものであります。これに答える言葉は「聖書の神は死に給わず」「聖書の人間は神ではない」で充分でありましょう。>と適切に応じておられます(『福音論争とキリスト論』p30)。

では小田切氏ご自身はどのようなことを「秘義」と語っておられるのかをみてみます。小田切氏もこの「秘義」という言葉を諸著にわたって多用しておられ、特に『福音論争とキリスト論』では枚挙に暇がない程です。結論から言って小田切氏にとっての聖書の秘義とは、正統主義的立場が言うような教会の教義などではなく、聖書が証しするキリストの福音です。それは他でもなく「御子に関するもの」(ローマ1:3)です。ここでは到底、全てを網羅することはできませんが、目に留まった所だけを抜き出してみます。

「ヨハネ伝ばかりでなく新約聖書は、イエス・キリストを決して神とは呼ばず、あくまでも神の子と呼んでいるという所に、聖書の独自なキリスト証言があり、そこに聖書の真理の秘義があると言うべきであります。」(『福音論争とキリスト論』p7)、<聖書は、(中略)「神の子」「人」(受肉)「神の子」を語っているのでありまして、ここに聖書の語る深淵な神の子の秘義があるのであります。古代教会の教義的表現「真に人、真に神」は、非聖書的な異教思想であります。>(同、p11)、<先在の「神の子」は神ではなく、「子なる神」でもなく、あくまでも、神の子であったために、受肉し、見える者、見ることの出来る者となり、神に対し、人の為に死ぬ者となったというのが聖書の語る福音の秘義なのであります。>(同、p15 )、<神の子は終末においても「神の国」においても「神」とは呼ばれず、あくまでも、神の子とのみ呼ばれる人格であります。イエス・キリストは「隠れたる神」――「天にいます父なる神」を啓示しつつ、自らは決して神とは呼ばれず、あくまでも、神の子とのみ呼ばれる人格であることに、深刻な秘義があるのであります。>(同、p18)、<「神の子」は創造の業をなしても創造主とは呼ばれず、又神と等しい栄光に輝く存在であっても、神あるいは「子なる神」とは呼ばれず、あくまでも只神の子とのみ呼ばれた人格であって、受肉して歴史の人となっては、見えざる神の御姿、聞こえざる神の言、知るべからざる神の御心を告げ知らせるものと証しせられ、死しては罪人の罪を神の御前に贖い、神と人との和ぎをもたらした仲保者として、そして又第二の創造の業をなしとげ給うたものとして、語られているのであります。これが「神の子」の秘義であります。そしてこれが福音そのものなのであります。>(同、p55)、<十字架の死の瞬間こそ、キリスト・イエスは徹底的に神ではない所のむしろ神より捨てられ、呪われた者として、罪なき罪人として、否罪人のために贖の死を死に、限りなく死を味わうものとして、いわば全く神ならざる他者なる主体者として、遥かなる神の前に立っているのであります。このような点にこそ十字架の福音の深刻な秘義があるのであります。(中略)死ぬペルソナと死なないペルソナが一体である、といった芝居がかった事とは異り、キリスト・イエスはいわば神からの一切の影響をたち切った主体者として、神の前でいつわりなき死、すなわち、徹底的死を死に給うたのでありまして、これが贖と救とを意味する十字架の福音の秘義なのであります。この福音は断じてドラマ化されてはならないのであります。>(同、p56)、<要するに聖書のテキストの上からは、イエス・キリストが神であるとの明白な証言は出ず、反って聖書のくり返しくり返し告げている証言が、特にイエス御自身が認めておられるものが(マタイ一六・一六)あくまでもイエスは「キリスト・神の子なり」ということが明らかとなり、この証言の中にこそ時間を貫き宇宙を貫く神の御経綸のにない手たる人格が、秘義に満ちて語り告げられていることを知るのであります。>(同、p5758)、<聖書にはない真に人、真に神の思想は、結局は非聖書的表現であります。聖書が真に語る「聖書のキリスト」は先在、受肉、昇天を貫いて「神の子」と呼ばれる人格であります。すなわち、神の子神の子神の子としてこそ、そして又そこに受肉の秘義が加わってこそ、初めて聖書の語るキリスト・イエスの秘義にふれることが出来るのでありまして、この様に神の子イエス・キリストの理解が正しくなされますなら、そのとき初めて「イエス・キリストの父なる神」を正しく理解出来ることになるのであります。>(同、p7879)、<聖書においては、「神」と等しいが「神」ではなく、ただ「神の子」とのみ呼ばれる人格が、極めて重大な役割を演じているのであります。すなわち、「神」でなくあくまでも「神の子」でなければならない人格に、聖書の「福音の秘義」が関っているのであります。>(同、p102)、<要するにイエスが真に人であつてこそ「死」に関わるわけであり、真に人でなければ彼の十字架の死が福音の出来事とはならないのであります。要するに、イエスが「神の子」であっても「神」ではない所に、救済の秘義が実現したわけであります。>(『キリスト論・ドイツの旅』p284)・・・、これくらいにしておきます。繰り返しますが、小田切氏にとって聖書の「秘義」と言えば、このように専らイエス・キリストに関る事柄です。使徒パウロが受けて伝えた福音の核心は、オーソドックスな神学で言われる「神が人となった」ということではなく「神の子が人となった」ということです。(5へ続く)

《御案内》

これは、小田切信男氏の福音論を伝えるサイトです。小田切氏は、「私のキリスト論はむしろ福音論ともいうべきものであって、この論争もキリスト論論争というよりは福音論争とこそいうべきものであります。」(『福音論争とキリスト論』序文 p3)、「私にとって、福音とはキリスト彼自身でありました。それゆえ、私のキリスト論はそのまま福音論であります。」(『キリスト論・ドイツの旅』p189)と述べておられます。

 

【キリスト・イエスが唯一無二の人格でありますから、神もまた唯一の神たる性格を持つのであります。すなわち、キリスト教においてはイエス・キリスト御自身は神ではなく、神といえば必ずイエス・キリストの父なる神なのであります。私共は初代のキリスト教徒達が神々の思想及び信仰の渦巻く異教の世界に福音を宣教するに当って「新しい神」「子なる神」としてイエス・キリストを伝えなかったことを深く考えてみなければならないと思います。(中略)二十世紀の中葉を過ぎた今日、聖書にはない安易な教義の中に安住して初代キリスト教徒達の深い体験とその宣教の真実さをうち忘れてはならないのであります。(中略)イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。】(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p13~15)