小田切氏の経歴

             (キリスト教関係を中心とする)

1909(明治42)年9月29日 北海道の釧路で誕生されました。お父上の栄三郎氏は帝室林野局の官吏であられ、北海道大学の前身でありクラーク博士で有名な札幌農学校で新渡戸稲造氏や内村鑑三氏と同じ二期生として卒業した宮部金吾氏(植物学者)のもとで学んだキリスト者でした。栄三郎氏の父君(信男先生の御祖父)は津軽藩の支藩であった黒石藩の城代家老だったそうです。お母上は青山学院の源流三校の内で最古といわれる海岸女学校を卒業後に青山女学院で英語の専門教育を受け、宣教師から受洗されたキリスト者でした。御家庭での想い出の一つは、お母上でのオルガン奏楽により小田切氏の兄上や姉上が讃美歌を歌ったことだそうです。
1920(大正9)年、御一家は札幌市に転住され、小田切氏は内村氏や宮部氏らが創立した札幌独立キリスト教会に所属していた御両親に導かれ日曜学校に通いました。
1927(昭和2)年、小田切氏は札幌第一中学から北海道帝国大学の医学部(予科〔医類〕)に入学され、同年にイギリスの国教会(聖公会)の宣教師ジョン・バチェラー司祭より受洗されました。小田切氏は教会で内村氏や宮部氏の影響下で信仰生活を歩まれました。そして札幌市豊平町のスラム街で「愛隣会教会」での福音伝道および無料診療所の責任者として奉仕活動を始められ、教会でも伝道の奉仕をされました(〜1937年)。この10年間の経験が終戦後に小田切氏をして健康保険医を辞退して自由診療を採用することを決意せしめたのでした(『キリスト者と天皇制』〔創文社〕p294参照)。
1934(昭和9)年、医学部を卒業され、附属医院第二内科に入局され結核の研究に従事されました。
1937(昭和12)年、陸軍軍医として招集され、この時点で奉仕活動が中止になりました。9月に中村道子様と結婚なさいました。
1938(昭和13)年、父君の栄三郎氏が天に召されました。
1939年(昭和14年)、結核に関する論文で学位を受けられました。また、陸軍軍医少尉に任官されました。
1941(昭和16)年、太平洋戦争が始まった年。第一次の招集は解除され、小田切氏は札幌市で医院を開業されますが1カ月目で再招集。その後は解除と招集を繰り返し、終戦を網走で迎えることになります。陸軍での最終階級は軍医大尉でした。軍務の最後は野戦病院隊長でした。
1942(昭和17)年、長男の光男様が誕生。その2年後に長女の信子様、その翌年に次女の保子様、その2年後に三女の律子様が誕生され、その2年後に四女の俊子様が誕生されました。小田切氏は1男4女の父親となられました。
1945(昭和20)年、終戦とともに小田切氏は札幌独立教会の再建に努め、北大農学部の時田郇教授と共に教会を牧会し、主日礼拝の証詞を担当されました。
1946(昭和21)年、復員して再度、医院を開業されました。前述のとおり、自由診療の道を歩まれました。健保の支払い様式の問題点として、医師を堕落させて診療体制そのものを崩壊させる原因となり、その累が病人にも及ぶことになることだと述べておられます。教会生活の方では、
札幌独立キリスト教会での礼拝説教などの奉仕に励まれました。
1947(昭和22)年、教会の創立者であり北海道帝国大学名誉教授であった宮部氏の米寿を記念して月刊誌『聖書研究』を創刊されました。

1949(昭和24)年小田切氏が、「私にとってキリスト論が問題となりました」時と述べておられる年(『福音論争とキリスト論』p88参照)であり、キリスト論の問題についてはこの年以来、「非常に迷いに迷い、また学びに学んで来た」(同、p90)と述べておられるように、氏のキリスト論研究の端緒となった重要な年です。
この年、小田切氏は札幌市YMCAの再建に協力しておられました。ある時、YMCAの目的条文(1855年の所謂「パリ基準」又は「パリ標準」)に謳われていた、「YMCAは、聖書にもとづいて、イエス・キリストを神とし、救主として仰ぎ」云々の一文に疑問を感じ、翌、1950年に日本基督教青年会同盟(以下、「日本YMCA同盟」と表記)からの要請により、YMCA目的条文についての疑義を提出しますが正式の回答を得られず、1953年に上京後に「YMCA目的一部改正についての意見」を提出しますが、ここで小田切氏ご自身が間違といわれることがありました。それは「神が人となる」という考え方を認めていたことです(これについては1953年のところを御覧下さい)。その誤りに気づいた小田切氏は意見を訂正されました。そして後にキリスト論を十字架論(福音論)の立場から採り上げ北森嘉蔵教授などとの討論を開始なさることになります。小田切氏にとって特に問題であるのは、「キリストを神とする」ことが「聖書にもとづいて」いるといわれていることでした。小田切氏にとってキリスト教とは贖罪宗教であり、贖罪宗教としての十字架の福音を徹底的に理解するためには、十字架上で死なれたキリストが神であってはならないからです。小田切氏は「YMCAの目的条文は、福音の内実を破る結果となり、福音を危くする」(『キリスト論・ドイツの旅』p8)と考えたのです。小田切氏は、「キリストに関する教会の伝統的教義が十字架の福音を危くすると感じて疑問をもち、聖書のみを権威とせよと教えられたところに従い『聖書のキリスト・イエスを旗印として』、これととりくむ」(『福音論争とキリスト教』序文p1)ことになったのでした。特に顕著な出来事として北森嘉蔵教授との福音論争への発展もあり、以後、1969年までの20年にわたるキリスト論を中心とする研究の日々が始まったのです。
1950(昭和25)年、前記のとおり小田切氏は「YMCA同盟からの要請により、YMCA目的条文についての疑義を提出」されました(『キリストは神か』p4)。

この年、最初の著書である『基督教的焦燥』が新教出版社から出版されました(『キリストは神か』p2、『神観の研究』p521参照)。

また、この年、母君の畿誠子様が天に召されました。
1951(昭和26)年第2作めの『真実を求むる者・キリスト者』が札幌クラーク書房から出版されました。恩師の宮部氏が天に召され、月刊誌『聖書研究』は第50号をもって終刊されました。同年、小田切氏は日本YMCA同盟の施設である東山荘で、当時、日本YMCA同盟学生部委員会の委員であった東京神学大学教授の北森嘉蔵氏と初めて論争されました。論争と言うより北森氏が小田切氏を「説得」したことのようですが(『福音論争とキリスト論』p18参照)、3年後の本格的な福音論争では小田切氏の方が北森氏を相手として希望し選んだと言われています(『キリスト論・ドイツの旅』p215参照)。そしてその理由は昭和25年に小田切氏が提出したYMCA目的条文についての疑義を一蹴したのが北森氏であったからだと言われています(『福音論争とキリスト論』p18.「キリストは神か」p4参照)。
また、この年はともしび社の主催で救国伝道集会が日本基督教団の富士見町教会で開かれ、小田切氏は講師の一人として北海道から招かれ、「倫理と福音の対決」という題でお話をなさいました。この集会で小田切氏は初めて、酒枝義旗氏と金井為一郎氏と藤原藤男氏に会われたとのことです(『福音論争とキリスト論』p91参照)。同年、小田切氏は北米とカナダのYMCA創立100年記念式典に日本代表の一人として派遣され、ニューヨークの街角で世界の激動を実感し自らも激しく生きんと決意されキリスト論論争のこともあり、翌年の1952(昭和27)年の歳末に家族を伴って上京し新宿に診療所用の家屋を求め明大前に住居を定められました。
1953(昭和28)年、1月、小田切医院が開設・開業されました。
「小さな子供達を抱え、大東京の激しい生活戦線に立っていけるかどうかというような人間的な憂いを持ちながら、新宿に小さな医院を開設し、そこで診療生活を始めたのであります。この時は私にとって最も辛い時代でありました」(『福音論争とキリスト論』p93)と述懐しておられます。また、小田切氏は東京神学大学の夜間講座に第七期生として出席され、日本聖書学研究所の聴講生にもなられました。同年8月、日本YMCA同盟の第25回総会において、目的条文への疑義理由を説明なさいました。また同年、第3作めの『福音から見た神と人』と第2作めだった『真実を求むる者・キリスト者』(第2版 ※初版は1951年)が、ともしび社から出版されました。この頃までは小田切氏の信仰的立場はオーソドックスであり、「イエス・キリストは神である」とは一度も言われなかったそうですが、「神の受肉せる人格」としてキリストを論じてきたとのことです(『キリストは神か』p23参照)。それがこの年にYMCA同盟に対して提出された「YMCA目的一部改正についての意見」という意見書の「一つの大きな欠点」といわれる「神が人となる」という表現に反映されています。そしてこの意見書は訂正されました(同、p45参照 ※この訂正の件についての北森氏のコメントと小田切氏の説明については『キリスト論・ドイツの旅』p263参照)。したがって小田切キリスト論の本格的な展開は、著書としては、1955年出版の第4作め、『キリストは神か』以降になります。

同年、YMCAのメンバーであり神学者であるスイス人のエミール・ブルンナー教授が、設立されたばかりの国際基督教大学(ICU)の客員教授として来日しておられ、日本YMCA同盟は12月にブルンナー教授を招いて、「キリストが神であることについてお話を伺う会」を催しました(『キリスト論・ドイツの旅』p207)。つまり、「イエス・キリストを神とする」という問題について、ブルンナー教授の話を伺うという主旨です(『キリストは神か』p5参照)。小田切氏はこの会を「主としてYMCAメンバーによる、いわば、つるし上げの会のようなもの」だと述べておられます(『キリスト論・ドイツの旅』p207参照)。もしそうなら、同盟の有志によって仕組まれた会にブルンナー教授も利用されたということになります。この時、小田切氏はブルンナー教授に概略、次の2つの質問をなさいました。1つめは、キリストの神性を認めることが、そのままキリストの神告白となるべきかどうか。2つめは、キリストを神とすれば神が死んだことになるが、聖書の立場からして神は死ねるものかどうか。いずれについてもブルンナー教授の答は得られなかったとのことです(『キリストは神か』p6参照)。
1954(昭和29)年3月、両氏は日本YMCA同盟の東山荘での会議に出席し、小田切氏のブルンナー教授に対する2つの質問の件が討議された際に、北森氏が反対の意を表明され、その後、両氏は文書による討論に入られました。私見ではこれが小田切氏と北森氏との論争の事実上の起点だと思われます。

この年に北森氏は日本YMCA同盟学生部委員会の一委員から委員長に就任しています。小田切氏は宗教委員だったようです(『キリスト論・ドイツの旅』p206参照)。小田切氏が書かれたものは、「聖書に基づくイエス・キリスト論」「北森教授の所論について」「生産的討論とキリスト論」の三つの文書であり、北森氏が書かれたものは、「小田切博士の問題をめぐって」「小田切博士に答う」(「北森教授の所論について-イエス・キリストは神か」を読みて)の二つの文書です(『キリストは神か』p6~8、『神観の研究』p521~522、『福音論争とキリスト論』p18~19参照)。これらはYMCAの内部文書です。少なくとも「北森教授の所論について」は内部の人にのみ謹呈とあります(『福音論争とキリスト論』p146参照)が、これらの文書が小田切氏の知らぬ間に『開拓誌』編集部から論争介入者である藤原藤男氏に全部、提供されていたとのことです(『キリスト論・ドイツの旅』p207参照)。

同年の7月に日本YMCA同盟の委員会が開かれ、小田切氏は既に公開した三文書を提出すると共に「YMCA目的条文についての疑義」(イエス・キリストは神か)を提出して数年来の提案を要約し私見を開陳されました(『キリストは神か』p9)。そしてこの意見書は翌年のパリ大会に提出できないことが分かったが英訳されて欧米のYMCA同盟に送られることが決定されたとあります(『キリストは神か』p9)。

また、この年、小田切氏はNHKのラジオ番組に出演されました。
1955(昭和30)年小田切氏はこの年を福音論争の起点とみておられます(『福音論争とキリスト論』序文p1)。まず、9月に小田切氏の第4作め、福音論争第一著作『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)』が待晨堂書店より出版され、副題に「北森教授との北森嘉蔵教授との討議を兼ねて」という副題が付いていたので、これを受けて北森教授が日本YMCA同盟の季刊『開拓者』12月号に批判の論文、「『キリストは神か』を読みて()」が掲載され、本格的な公開討論が始まりました。さらに1月号には同論文の()が、2月号には()が掲載され、4月号には「『神の痛み』その他について」が掲載されました。小田切氏の方は、翌年の1月号に「神は死に給わず」、2月号に「福音を危うくする『神の痛みの神学』」、4月号に「十字架の上なるキリスト・イエス」、6月号に「聖書の『神』と『キリスト』」が掲載されました。4月号に編集部からの論争終結の連絡が記され、論争は実質的に4月号で終結し、5月号には読者からの意見や質疑が掲載され、6月号に小田切氏が藤原氏及び読者その他の人々への回答が掲載されました。それが「聖書の『神』と『キリスト』」です(以上、『福音論争とキリスト論』p6061、『神観の研究』p522参照)。小田切氏は論争に入った理由として、「福音に燃ゆる心の止み難きものがあったから」(『福音論争とキリスト論』p45p59参照)と述べておられます。小田切氏と北森氏との論争には藤原藤男牧師の介入などもあり誌上企画は6月号まで続きました。また同年、第5作目の『悲しむ者キリスト者』が待晨堂書店より出版されました。
この年には小田切氏は前年に続いてNHKの番組に出演されました。また、この年に、前年に新築が着工された小田切医院は四谷に移転されました。その
新病院の2階を同研究所のために提供され、後には名誉会員になられました。また、日本キリスト者学会、日本キリスト論研究会の研究・会議のためにも施設を提供されました。

1956(昭和31)年12月、新宿の工学院大学で「福音を危うくするもの」という講演を行ない、以後8年間にわたってしばしば講演活動がなされました。
1957(昭和32)年第6作め、福音論争第二著作の『福音論争とキリスト論』が出版されました。その序文の中で小田切氏は、「私のキリスト論はむしろ福音論ともいうべきものであって、この論争もキリスト論論争というよりは福音論争とこそいうべきものであります。」と述べておられます(p3)。この年、「日本基督論研究会」が設立し小田切氏が主宰者となられました。専門の学者による「キリスト論講演会」が1969(昭和44)年までに計15回開催されました。第15回は小田切氏を含む四氏による討論会でした。この12年間が、小田切氏のキリスト論研究時代であるといわれています。その小田切医院の中の会場が先生によりロゴス講堂と命名され、その意味を最終回となる「第十五回キリスト論研究会シンポジウム」の中で次のように述べておられます。「この度は、キリスト論講演会の為の講堂というような意味で、このような講堂をここに与えられまして、ロゴス講堂と名付けたのでございますが、(中略)ロゴス講堂のロゴスは、新約聖書のヨハネ伝のロゴスではまことに恐れ多いのでありまして、むしろ、キリスト論というそのキリスト論の論にあたる意味で、ロゴスという言葉を理解していただいて、ロゴス講堂はここで真理が、特に聖書について論議される講堂である、学問的に、神学的に討議のなされる講堂であるというふうに考えていただければ幸いでございます。」(『神学と医療との間』〔創文社〕p239
1960(昭和35)年、小田切氏は北ドイツ・ミッションの招きでドイツに渡ることになり、4月23日の夜、その挨拶に賀川豊彦牧師を訪問され最後の治療を試み、召天に立ち会われました。ドイツでは説教、講演の2カ月の旅を経て6月にはハンブルク大学に招かれ2日間にわたりキリスト論について講演かつ論争されました。

1964(昭和39)年、上記の経緯が、第7作め、私見ではキリスト論論争第三著作といえる『キリスト論・ドイツの旅』として紀伊國屋書店から出版されました。これを小田切氏の福音論争第三著作とみることができます。同、調布市駅前に「小田切ビル」を建築。一般内科・小児科の診療に、内科臨床予防医学(人間ドッグ)を併置し、診療所を、「東京ロゴス診療所」と改名されました。調布市の人口と開業医の数から小田切氏の開業の余地はなかったそうですが、当時の医師会長にかけあい、健保を採用しないことと広告しないことと病院の宣伝をしないことと往診をしないことの4点を条件に開業が認められたそうです。20人もの従業員を抱えての開業でした。ビルの1階には礼拝堂(東京独立ロゴス教会)と日本聖書学研究所、日本キリスト論研究会、東京独立ロゴス社事務室を設けられました。
1966(昭和41)年小田切氏の医療を受けた人々が相はかって「小田切信男博士感謝の会」が結成され、内、有志数名が「小田切信男博士感謝記念論文編集委員会」を組織し『キリスト論の研究』を1968(昭和43)年に刊行しました。この論文集には小田切氏の論文「『臨終の倫理』とキリスト論」も収められています。同年、小田切氏は『癌と外科医・内科医』(医学とヒューマニズム)を出版されました。
1970(昭和45)年、小田切氏は「神観研究会」を組織し、その主宰者になられ、その年の10月から1977(昭和52)年に至るまで16回にわたり22名の専門家による講演会を開催なさいました。
1973(昭和48)年、小田切氏は比叡山に旅行されたことをきっかけにして法然の研究を始められ、その成果として1977(昭和52)年に「法然とパウロ――救済宗教と『臨終の倫理』」を峰島旭雄編『浄土教とキリスト教』(山喜房仏書林)に発表なさいました。同年、御両親を記念し感謝の意を表わすべく『キリスト教と天皇制-真実を求めて』がサンケイ出版より刊行されました。小田切氏は天皇制を尊重しておられますが、かつて神格化された天皇のその「神」をGodと区別した上でのことであり、Godを「神」と訳したことの誤りを指摘されています。なお、この著書の中で五・一五事件については「七名の死刑」とありますが、これは誤記で死刑者は出ていません。
1979(昭和54)年、3月に脳溢血で倒れて昭和大学附属病院で入退院をくりかえされました。5月末から石和の温泉病院で始められたリハビリがうまくゆき、いったんは元気になられて御家族も安心され、昭和56年6月に御自宅に戻られて療養生活に入られました。
1982(昭和57)年、4月に右大腿骨を骨折され、また、急性胆のう炎から腹膜炎を発症され2回の手術を受けられましたが、以前から腎臓も悪く、三宿病院(御子息の光男医師の義弟にあたられる方が医師として勤務されていた病院)に入院されました。しかし同年、6月13日に腹膜炎に由来する尿毒症による腎不全が原因で天に召されました。午後4時21分とのことです。享年72歳であられました。
故・小田切信男氏の御葬儀は6月19日(土)午後3時より、東京都世田谷区にある日本基督教団頌栄教会で野呂芳男牧師の司式により執り行われました。御葬儀の様子については野呂氏自身が、小田切信男著『神学と医療との間』(創文社)のあとがきで詳しく述べておられます。なお、その「あとがき」の最後に小田切氏の遺言ともいえるメモが掲載されています。
<いつ召されても感謝出来る程に長く生き、為すべき事をなした。ここには書かないが、多くの人に恩をうけた、多くの友を得た、感謝している。何もかも美しい、「今」。声なく響く「言」 創造の業、「自由」の破れ、「言」の受肉 素晴らしい。「肉」は軽んじてはならない。言は受肉されたから、そこにイマゴー・デイ(ImagoDei)が宿る。贖罪を通して福音を通して、何もかも美しい。よい哉人生。神とキリストに賭けた人生。これ以上のものはない。一九七九、一二、二七。>(「言」に「ロゴス」のルビあり。)


以上は、『キリスト論の研究』『神観の研究』『神学と医療との間』『キリスト者と天皇制』(いずれも創文社)と、『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト) 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて 』、『福音論争とキリスト論』〔いづれも待晨堂書店〕を参照しました。特に重要な事柄については参照書名と頁数を表示しました。晩年については御子息からもお教え頂きました。お写真も御子息から頂戴したものです。

《御案内》

これは、小田切信男氏の福音論を伝えるサイトです。小田切氏は、「私のキリスト論はむしろ福音論ともいうべきものであって、この論争もキリスト論論争というよりは福音論争とこそいうべきものであります。」(『福音論争とキリスト論』序文 p3)、「私にとって、福音とはキリスト彼自身でありました。それゆえ、私のキリスト論はそのまま福音論であります。」(『キリスト論・ドイツの旅』p189)と述べておられます。

 

【キリスト・イエスが唯一無二の人格でありますから、神もまた唯一の神たる性格を持つのであります。すなわち、キリスト教においてはイエス・キリスト御自身は神ではなく、神といえば必ずイエス・キリストの父なる神なのであります。私共は初代のキリスト教徒達が神々の思想及び信仰の渦巻く異教の世界に福音を宣教するに当って「新しい神」「子なる神」としてイエス・キリストを伝えなかったことを深く考えてみなければならないと思います。(中略)二十世紀の中葉を過ぎた今日、聖書にはない安易な教義の中に安住して初代キリスト教徒達の深い体験とその宣教の真実さをうち忘れてはならないのであります。(中略)イエス・キリストの人格についての問に対する答は「神」とか「人」とかと答うべきではなく、ただ「神の子」と答うるのが聖書に基づく答であります。「神の子」は先在においても、受肉しても、死して甦って昇天しても、常に「神の子」と呼ばれて充分でありまして、それが聖書の語るイエス・キリストなのであります。】(小田切信男著『キリストは神か(聖書のイエス・キリスト)- 北森嘉蔵教授との討議を兼ねて- 』〔待晨堂書店〕p13~15)